やがて。
薄緑色の奇妙な外車が走り去る。
緒方はばつが悪そうに駐車場をとぼとぼと歩き始めた。柱の影で飯島が笑っている。だからマイクを通すのに不適当なほどの大音量で訴えた。
不機嫌だということを、アピールしたくなったのだ。
「後部座席には誰かが乗ってました。明らかに怪しいです、けどぉ」
〈…………けど、何だ〉
「教えてください、これ何のドッキリですか? 俺が十一係に配属された理由って、まさかアイツが岩戸の専属運転手だからですか」
〈だったらどうする。幼なじみを監視するなんてできっこねぇ、転属させてくれ、か?〉
「……いいえ」
〈不服ですって顔、してるじゃねぇか〉
「係長……有華が何者かご存じですよね」
〈お前ほどじゃないだろうけどな。俺が知ってるのは、岩戸が総務省傘下の独法(独立行政法人)の下っ端職員を一人私物化してる事と、その小娘が高柳警視総監の姪っ子だって事だけだ〉
緒方は無線連絡が不要な距離まで近づくと、上司をにらみつけた。
「警視総監に通じるパイプ役として、有華を手元に置いている……そういう意味ですか」
「……どうだ。岩戸紗英が本物の魔女に見えてきただろう、緒方警部」
飯島警視はニタリと笑う。「幼なじみのナイト役、買って出たいとは思わねぇのか?」
東京ミッドタウンの駐車場をロータス・エクセルが滑り出た。二つ目の信号で混雑する六本木交差点に背を向け、北西方面へと鼻先を振る。
常代有華は動揺を隠すべく黙々とアクセルを踏んだ。幼なじみの警察官に忠告されるなんて全くの想定外。よりによって隼人に仕事の邪魔をされるなんて――。車も不調で、マニュアルシフトがかっちり決まらないのにもイライラする。腕のいい運転手として岩戸にかしずくのは、最低限の義務だというのに。
「うー。辛いなぁ。辛いっ」助手席の岩戸が大きくのけぞり、背伸びして言う。
「すいません。乗り心地、悪いですか?」
「え?」
「クラッチのつながる位置が高くて……」
暗幕の中から手が現れ、高く上がった。
「はーい。いつもほどスムーズじゃないって気がしてましたぁ」GEEは自分もバイク乗りで、だから運転にはうるさい。
「バレてましたか」
「調整で済む?」
「クラッチディスクが限界、かも。パーツ探しはやってるんスけど」
「二十年落ちの英国車で程度のいいジャンクなんて、日本でみつからんやろ? せやからいうて、イギリスで見つけても雨ばっかりやし錆び錆びやろな」
「実はこいつのミッション、ヨタ製なんです。だから……探せばなんとか」ヨタ、とはトヨタの略。GEEが相手なら通じる。
「日本原産か……ロータスって素敵やね」
親指をぐっと上げたGEEの右手が、するりと暗幕の中へひっこんだ。乗っているのは全員女だが、三人中二人までがオトコオンナを自覚するメカヲタ。助手席のオーナーだけが蚊帳の外という構図。だが岩戸も負けじと携帯電話を手に取り、車の不調に心を砕いた。
「あ……もしもし四本木さん? 例の私の車、92年式のロータス・エクセルなんですケド……くらっち……なんだっけ」
「クラッチディスク」
「クラッチディスク。そう。探していただけます? ……はい。連絡待ってますね。ああ、今日はありがとうございました。四本木さんが居てくれると助かります……本気で言ってますよ……はい? 赤? ええ。赤、気に入ってます。うふふ」岩戸は喋りながら舌を出した。「……はい。ご連絡待ってます」
そして電話を切る。
「誰です?」と有華。
「ベガス社の偉いひと。四本に木で、四本木さん。クラシックカーマニアらしいの」
「さっきのカエルみたいなおっさんかいな。車に轢かれたヒキガエルは見たことあるけど車に乗れて修理までするカエルは貴重やね」
GEEの悪態には悪意がない。ほぼ無意識の産物だ。
「失礼ね。クラッチディスク見つけてくれたら、格上げしないとダメよ」岩戸が片目を瞑る。「何ガエルにしよっか」
有華は聞き耳を欹てながらシフトチェンジを意識した。車を預かる責任を感じる手前、クラッチの不具合を笑って誤魔化せない。
「修理の心配させてすいません。いろいろ手は尽くしてるんですけど」
「ね、乗り心地に文句はありませんのよ? 気分がねぇ、上がらないの」
岩戸は深く頭を垂れた。時間をかけて準備してきた合同記者会見が流れた上に、警察との蜜月まで破綻寸前。それが堪えるらしい。
「……かける言葉がありません」有華としては、そう答えるほかはない。
暗幕の裏でGEEがキーボードを弾いた。「……猪川大臣の息子、葬式の日程が出たで。明後日や」
岩戸は間髪いれず言った。「電網庁で供花、それと私の名前で弔電を。文面は今夜考える。メールで送るわ」
「……了解」有華が答える。「明日で間に合います」
「あーあ。ダブルパンチとは、恐れ入るなぁ」岩戸は助手席でのけぞった。
「ついでに公安。監視ついちゃいましたね」
「さっきの子犬君か。トリプルパンチね……泣きたいよぉ」
有華は黙った。自分と緒方のなれそめを話したところで、事態が好転するはずもないと思う。しばし車中は静かになった。こういう時、岩戸は踏み込んで尋ねてこない。
暗幕の裏側から大きな関西弁が聞こえた。
「……岩戸はぁん」
「何ぃ」
「……ゆかりんの所属。ええかげん電網庁に移したってや。職員全員が電網一種持ってる必要なんて、ないんやろ?」
岩戸は黙っている。有華も口をつぐむ。
GEEは暗幕をめくりあげて言った。「……総務でも人事でも、何でもええやん。嘱託の出入業者なんて腐るほどおるし、公務員試験なんか、どうでもええんとちゃうん? せやないと……いらん疑いがかかるで?」
本来、有華は岩戸の運転手を勤めるべき立場にない。勤め先のNICTはいわゆる外郭団体。総務省から莫大な研究予算を委託されてはいるが、だからこそ官僚の鞄持ちをしてはならない。NICTの事務員を岩戸が顎で使う行為は「収賄」に等しい。
しかも有華は警察幹部の姪。何か意図があると邪推されても不思議はない。二人が二人とも、その問題を重々承知している。
有華はつとめてポーカーフェイスを装い、上司の色良い返事を待った。ハンドルを握る手はしっとり汗ばんでいた。
「……NICTに机がちゃんとあるんだから。強引には無理よ」岩戸は杓子定規に言う。
有華はブレーキを踏み、車が停車したタイミングで慎重に切り出した。
「ここ一年、ほぼ毎日霞ヶ関に通ってますけど、所長に怒られたことなんて一度もありません……頼んだら、簡単に辞めさせてくれると思う」電網庁で雇い入れてほしい。そういうニュアンスを込めた。
「ほらぁ」GEEがけしかける。しかし。
「……その件、また今度にしない?」
岩戸はあっさりと話題を打ち切った。
信号は赤――沈黙が、続く。
暗幕の向こうで声がした。「……ところで、ベガスのオートパイロット車、どこで受け入れるんや? やっぱり国分寺?」
「ああ、あれ? もちろんNICTね。っていうか、笑っちゃった。赤色だって」
「岩戸紗英専用ってことやろ。カエルのおっさん、ヒール感覚で踏んづけてほしいんとちゃうか。MやでM。ドM」
「ヒキガエルのヒキって、そういう意味?」
エスカレートする二人に有華が割り込む。
「私、お払い箱ですか?」
岩戸もGEEも押し黙った。
「だって……オートパイロット車で通勤するなら、専属ドライバーいらなくないスか?」
「マジで心配しとったか」暗幕の中から手が伸びて、有華の頭をくしゃくしゃと撫でる。
GEEの手はあたたかい。けれど、欲しいのは岩戸の答えだ。
信号が青に変わる。車が再スタートを切る。有華がシフトアップを終えて巡航速度に落ち着いた頃、岩戸がゆっくり切り出した。
「ねぇ、ゆかりん」
「……はい」
「潮時かもしれないわよ?」
「……どういう意味ですか」
「公安に監視される魔女と、行動を供にする。これ以上続けたら……あなたのご実家に、迷惑がかかるかもしれない」
「……運転手辞めろ、って話ですか」
「ううん。岩戸紗英としてはお願いしたい。ゆかりんの……選択次第ってこと」
「続けさせてください」有華は即答した。
「……じゃあ明日、例のイケメン君が着任でしょ? 受け入れヨロシクね」
「……はい」
GEEは暗幕から頭を出して言った。
「新人はイケメンなんか!? ぐひひ、楽しみぃ」
有華は笑顔を作ろうと心がけた。前を向いたままでも自分を気遣うGEEの視線、ぬくもりは感じられる。けれど岩戸がどこを向いて、何を考えているかはまるでわからない。
電網庁長官を支える四天王クラスの女性官僚。大物政治家の娘でありながら学業優秀、実力で今のポジションに登りつめたエリート。憧れの相手だ。けれど慕う気持ちが強ければ強いほど、相手の事がわからなくなる。
ロータス・エクセルの室内はさほど広くなかった。なのに助手席は、はるか遠くに感じられた。