第0話(四)

 津田沼和矢(つだぬまかずや)は不機嫌だった。ホテルのロビーで一時間以上も上司の戻りを待つなんて、前の会社でも、その前の会社でも経験がない。わざわざ辞めてフリーのプログラマになって、馬鹿馬鹿しい雑務から開放されたと思ったのに、募集条件につられてしまい、再再就職して、結局――また家に帰れないでいる。
 帰れないと困るのに。
 ゲームができないのに。
 スマートフォンで職場へ持ち出せるような軽いヤツには興味がない。大画面とハンドル、パドル式のシフトレバー、アクセルにブレーキ。専用コントローラーが必要なカーレースが津田沼の大好物だ。今夜は大事な夜。ネットでは配布されたばかりのサービスパック(ゲームソフトの更新プログラム)にまつわる議論が既にアツい。こんなタイミングで残業なんて最悪。世界トップ100のゲーマーとして名を連ねるには、こういった出遅れが致命傷だ。なのにあの長髪上司ときたら「何時に帰れるかは流れ次第」などとほざいた。ほざきやがった。帰らせてくれ、とは言い出せない。「帰ってeスポーツに没頭します」などと言えば説教されるのがオチ。最初の会社はそれが理由で辞めた。次の会社はそれを我慢して、感情がたかぶって別のトラブルを招いた。反省はしていない。悪いのは理解しようとしない側。価値観というものは人それぞれなんだ。そうだよ。それぞれなんだ。
 津田沼は膝の上でノートPCをいじりつつ、同僚の横顔をちらちらと観察した。自分と同じく急な残業、理不尽な居残りを命じられて機嫌を損ねている筈だ。スマホいじりに没頭している眼鏡ッ子の仲本繭。瞳が大きく、口と顎は小さい。萌えキャラのごとき名前に見合う精緻なルックス。繭を眺めていれば津田沼の気分は少し晴れた。
「あのラウンジさ、生ビール千四百円だって。飲んでもいいのかなぁ」暇つぶしに、話しかけてみる。「やってられないよね」
「いいんじゃない」かなり雑な返事だ。
「領収書切っといたら、清算してもらえると思う?」
「知らない」
「あの料亭でさ、あいつら何食ってるんだろ」
「………………さぁ」
 繭がスマホより自分を優先することはまずないと津田沼は理解している。理解した上で、しつこく話し続ける。
「中にいる連中はさ、まぁ偉い人たちなんだろうけどさ、僕らだって同じ公僕だし、同じぐらいの金額ぐらいまで経費で飲み食いしてもいいと思うんだよねぇ。つっても試す勇気は無いけどぉ。きっとさぁ、千四百円の生ビール飲んだってぇ、居酒屋で飲む五百円のと同じ味だと思うし。ってか絶対そうだし」
「………」
「今夜の会合ってさぁ、何時ぐらいまでかかると思う?」
「……………二十一時」
「じゃああと二時間以上かかるってこと? うげー……困りますね」
「…………………………………」
 返事は潰える。というか無視。いつものことだ。繭はいわゆるツンキャラ。それがまたいいと津田沼は思う。馴れ合いを嫌い、プライベートを閉ざす。優秀なフリーランスはそうでなくちゃ。その上かわいいなら文句のつけようがない。ところで君は何をしているか周囲に悟られないよう画面を顔に近づけているけど、実は眼鏡に映り込んでて、遊んでいるゲームの中身はパズル系だとわかるよ。わかるんだよ。しかもこのラウンジは暗いから、スマホの明るさが際立つんだぜ。その分、余計に、わかっちゃうんだ!
 そこまで考えて津田沼はニヤニヤする。 
「終わっちゃったよ」
 突然、頭上で存外な声がした。
 長髪の男が目の前に立っている。自分たちを延々と待たせ、繭によれば二十一時まで姿を現さないだろう上司が。
「終わったって……じゃあ帰れるんスか」
 津田沼は一瞬笑顔になったが、そんな自分を後悔した。上司がラウンジに向かって歩き出してしまったのだ。部下の質問に何も返さず、すたすたと。金髪美人の、明かに外国人と思われるホテルウーマンに導かれ、高級感漂う薄暗い闇へと消えていく。暗い上に観葉植物やオブジェに遮られ、特徴ある外見をしていても行方は皆目わからない。
 津田沼は繭に尋ねた。「帰ってよし、って言った? あいつ」
 ツンキャラ娘は返答しない。相変わらずスマホに夢中。津田沼は再びソファに背をもたせかけ、憮然としつつPCのキーボードを打った。
 本来なら砂堀恭治は尊敬すべき上司だ。一回りは歳上で、セキュリティアプライアンス業界では評論家として名を馳せている。しかし初対面から印象は悪かった。採用面接でハッカーとは何かなどと自説を披露、それとなく同意を求めてきた。その不遜な訳知り顔が腹立たしい。だいたい面接で主張を押し付けるなんてパワハラだろう。パワハラって意味知ってます? そう尋ねたくなる相手だ。
 外見を意識しすぎなことも津田沼にとってはマイナス評価である。お洒落な野郎はハッカーの風上にも置けない、と思う。以前、砂堀の持ち物をネットで調べたことがあった。靴、スーツ、ネクタイ、頭の先からつま先まででトータル五十万円はくだらない。おまけに手入れの行き届いた長髪――最低だ。どう考えても最低野郎。おまけに今夜は俺を足止めしている。最低の上司。上だけど下。
 そんな風に津田沼がふてくされ始め、さらに二十分ほど経った頃。
(あれ?)
 隣の繭が突然立ち上がった。津田沼を置いて、さっさと歩いていく。
(何だ何だ)
 繭の背中を目で追うと、ラウンジの出口あたりで砂堀が誰かと立ち話しつつ、「こちらへ来い」と手招きしているのが見えた。あの輪に加わらなければいけないらしい。慌てて津田沼も立ち上がる。しかしノートPCの電源がすぐに落ちない。焦る。てきぱき行動できない奴と思われるのは癪だが、自前のPCだからぞんざいに扱いたくない。
 やや遅れて合流した津田沼は、人の輪の外に漫然と立った。
「……あ、彼が津田沼君といいます」
 砂堀に紹介されて、仕方なく適当に頭を下げる。顔をあげるとスーツ姿の女性が目に飛び込んできた。
「がんばってね……期待の新人さん」
 紹介された相手は年齢不詳の美魔女であった。ラウンジを仕切る従業員たちもたいがい美人揃いだけれど、さらに上を行く。
「こちら、岩戸さん。知ってるでしょ?」

“第0話(四)” への1件のフィードバック

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