第0話(二):港区:赤坂:夜

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 小振りなサーキットで子供向けのカートレースに興じる少年少女は珍しくない。けれど女の子は男兄弟についてくるケースがほとんどで、だから男兄弟もしくはその男友だち連中に勝てないと悟った途端、辞めてしまう。有華のように同世代から上級生までことごとく男子をなぎ倒し続けたケースはごく希で、キッズカートからジュニアカートまでトップで駆け抜け、見事ジュニアフォーミュラへ昇格、十六歳で大人に混じり本格的なサーキット参戦を果たした天才少女の存在は、こと筑波に限って言うなら十年に一度あるかないかの珍事であった。華々しい活躍が業界を大いに湧かし、自動車アイドルとして常代有華という名前は親爺共の記憶に深く刻み込まれた。その後、訳あって彼女のレース人生は十八歳で幕を閉じ、それからすでに五年がたつ。とはいえ人生の大半をガソリンとオイルにまみれ、百分の一秒単位で凌ぎを削った質(たち)だから、車を離れても身のこなしには並外れてキレがある。格闘技も球技もダンスも経験は皆無。けれど元来器用だからやってできないことはない。子供の落としたおにぎりだって、巧くキャッチする自信がある。食事に気を遣う癖があるから、太りすぎたことも痩せすぎたこともない。今も体重はプラスマイナス100グラムをキープ。筋肉の質、脂肪の量、すべてがバランスよく調和していると思う。
 けど。だけど、これだけは残念。
 やっぱケツ痛ぇ――じゃなくて、お尻が痛い。
 東京ミッドタウンの地下駐車場に舞い戻って車に乗り込むや否や、有華はバケットシートの座り心地に限界を感じた。身体がシャープだと尻に脂肪が足りない。だからシートがボロだと痛みに耐えられない。本革張りといえど新車の頃から二十年は経っている。業者に頼んでリフレッシュさせるか、安物でいいから交換したい。でもこのオンボロ英国車には、もっと急を要する機械的なトラブルがある。だから――
(我慢だ、有華)
 お尻の下に両手を差し込んで、もぞもぞしつつ、有華は運転席から後部座席に声をかけた。
「おにぎりとお茶。ゲットしました。コンビニのじゃないからね。ミッドタウン仕様の高級おにぎりだぞ」
 車は四人乗り。座席の前後は暗幕で仕切られている。
「猪川大臣の息子、殺されたんやな」幕の向こう側から聞こえてくる声は、低くくぐもっていた。「酷い話やで」
「え、バスの件? ……それマジっスか。事故じゃないってこと?」
「たぶん」
「ってことは、他の五十五人は巻き添え?」
 暗幕から頭を出してGEE(ギィ)がそっけなく言う。
「要人の息子だけを殺すより、五十六人まとめて殺したほうが効果的って判断やね」
 またそういう言い方を――。有華は頬を膨らませた。はっきりものを言う人間は嫌いじゃない。でも他人が聞いたら悪玉認定されそうな発言は控えるべきだ。特にGEEはコテコテの関西弁。東京では怖がられてしまう。
「効果的って言い方、ダメっすよ……ギィさん。だいたい、何にどう効果があるのか、アタシにゃよくわかんない」
 不謹慎だと思いつつ、有華は女ハッカーの真意を測ろうとした。裏社会に通じてきた経験、犯罪の嗅覚は頼るべきだと思うから。
「ウチらを困らせるのに効果的ってこと」GEEは笑う。
「うっそ。電網庁を困らせるために、高校生が五六人死んだって言いたいの?」
「わからんか? ほな国交大臣が今夜、このホテルに来るか来ないか賭けよ。ナンボ張る?」
「えー、賭けるとかやだ」
 GEEは暗幕を跳ね上げ、ノートパソコンを有華に差し出した。「ほれ。猪川忠直、ずいぶん遅刻みたいやで?」
 有華が液晶を覗き込む。監視カメラのリアルタイム動画。どうやら会合はまだ始まっていないらしい。
 GEEはやや大振りなサングラス型モニター――いわゆるHMD(ヘッドマウントディスプレイ)を装着し、それで同じ画像を眺めているから、有華と同じ液晶画面を覗き込む必要がない。だから暗幕の中へするりと頭を引っ込めた。
 そのスムーズな動きは短く刈り込んだヘアスタイルのおかげだろう、と有華は思う。女に見えないほどツンツンのベリーショート。メイクも薄くて一見イケメン。HMDがスポーティなデザインだから、イケメン度は余計にアップする。
「ギィさんは来ない方に賭けるってこと?」
「……来ない方に五千円。さぁ、ユカリンなんぼ張る? レイズ?」
「顔見せてください」
「なんで」
「声が笑ってるもん……賭けないっス。どうせ来ないんしょ? 来ないってことが、もうわかってるんしょ? メールをハッキングしたとか、電話を盗聴したとか……なんかそういうヤツで結果がわかってて、有華がチョロいから、お金をだまし取ろうとたくらんでやがる」
「それではあかんなぁ、ゆかりん」
「何」
「ギャンブルは女のたしなみやで」
「出た……女のたしなみって言えば、常代有華は何でもやると思ってる。やんないぞぉ。だって聞いたことないし」
「女性誌読まへんくせに。女はギャンブルで綺麗になるって特集、見たなぁ最近」
「嘘つけ。ぜったい嘘。ギィさんだって女性誌読まないじゃん」
「アホ読むっちゅうねん」
「何読んでますか」
「パチンコ必勝法………………あ、御免。チンコって入ってたわ」
「男性誌だね」
「オトコオンナのままでええんか?」
「オトコオンナに言われたくない」
「言うね」
「言いますよ」
「ギャンブルはアレや、高卒のたしなみ。これは間違いないやろ?」
「大学出の方が社会で役立たずだ……って聞いたことある」
「おー、負けん気すごいよなぁ」
「へへ、負けん気すごいっしょ」
 二人はいつもの如くじゃれ合いながら、しかし両の目で監視カメラの画像をしっかり見据えていた。二人の遥か頭上――ホテル「ザ・リッツカールトン東京」の四十五階、高級料亭の一室。その様子を。

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