第0話(二):港区:赤坂:夜

 常代有華(つねしろゆか)は飛ぶように歩く。走っているわけではないし、慌てているわけでもない。けれど足どりは普通の人間よりも速やかで、有華を知る誰もが彼女を俊敏な動物に例える。猫、あるいは豹。獲物を求める今は、さしずめ猟犬だ。
 獲物とは――女二人分の「軽食」である。
(確か、おにぎり屋があったよね)
 車の中で上司の帰りを待つ、などという仕事は性に合わない。監視カメラの画像をじっと眺めている、なんて役どころにも欠伸が出る。買い出しはむしろ望むところだ。高揚感で自然に腿が上がる。
(おにぎり、おにぎり)
 今日は場所が場所だけにますます回りが止まって見える。東京ミッドタウンなどという、都内でもとびきり落ち着いた格調高いショッピングモール。価格設定が変態的に高く、従って忙しそうな客が一人も見当たらない。ニューヨークで予約が取れない有名レストランの姉妹店だの、明治に創業した黒毛和牛処のプロデュースによる鉄板焼だのが並び、千円以下でランチを食べたい庶民をビル全体が拒んでいる。ラーメンが千八百円と聞いただけで有華としては願い下げである。それでも此処で買い出しせざるを得ないのは、霞ヶ関の官公庁が東京ミッドタウン、要するに「旧防衛庁跡地」を重要な会議やカンファレンスの開催地として推奨するからだ。
 有華はガラスの壁や奇抜なオブジェに彩られた真新しい地下街を真っ直ぐに突っ切り、比較的安価なショップが並ぶエリアを目指していた。
 ガレリアと呼ばれる区域と、プラザと呼ばれる区域。その二つをつなぐ通路沿い。
(あったぞ)
 コンビニのおにぎりとはひと味違う価格設定が目に飛び込む。まぁいいよ、領収書もらうんだし……と列に並んだ矢先、有華は視界の片隅にイレギュラーな挙動を示す物体を認識した。
 落ちる。
 落下する何か。
 母親に抱えられている五歳程の幼児、その手が滑り、重力に引かれた何か。
「おわっ」
 有華は動きも機敏ながら、動体視力は常人を遥かに超える。だから咄嗟に脚が出た。足の甲が見事に落下物を捉え、蹴り上げる。
 子供が「あっ」と声を出すより早く、それはぽんと跳ね上がって、有華の手に収まった。
「あら」有華が目を丸くする。
「あらら」同じく母親も目を丸くする。
 掌に収まっていたのは、まごうことなき米粒の塊。醤油で味付けられた鰹節、いわゆるおかかにまみれ、元はおにぎりだっただろうことが微かに理解できる。
「あっちゃあ」
 有華は笑った。「ごめん。蹴っちゃったぁ。手でキャッチすればよかったね」
 母親が申し訳なさそうに頭を下げる。でも、有華には自分が悪いという認識しかない。足なんて出すからアウト。こういう時は手。うん、手じゃなきゃ。バレーボールでもやってりゃあ、回転レシーブぐらいできたんだろうに。
「すごいですね、でも」母親は改めて言う。「フットサルでもやってるんですか」
 有華は笑った。「やってないっス。てか、手も結構速いはずなんだけどなぁ。へへ、次こそ絶対、手でとるから」
 元レーサー、などという身の上は話さなかった。一般の女性を相手に盛り上がる話題ではないとわきまえている。仮に相手が男性で、しかも十代の自分が華やかに活躍した筑波サーキット時代を偶然知っていたりしようものなら、なおさら昔話はしたくない。女の子のサーキット通いは珍しいから面白い話題には違いないだろう。けれど一から十まで楽しいエピソードばかりじゃない。
 もしもそうなら、カーレースの道を諦めていない。
 こんなところでおにぎりの買い出しなんか、してるはずがない。

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