「おし。オーケー。始めて下さい!」
有華の号令を待って、テクセッタが動き出した。運転席には男が座っている。しかしハンドルを握っていない。おそらくアクセルも、ブレーキも踏んでいない。あくまで座っているだけだ。車はまっすぐ進んで一旦停止すると、後退し始めた。ハンドルを勝手に切り始め、駐車場に用意した二つのパイロンの間にぴったり収まるべく、滑らかにカーヴを描く。動きは慎重そのものだ。やがて減速、停止。
運転席の男がドアを開け、降り立ち、胸を張った。
「はい。今ので二十六秒」
手にしたストップウォッチをこれみよがしにアピールして、ニンマリと笑う四本木篤之。彼の横に大きく広がった口は、両目の広い間隔とともにカエル面を形成し、そのキャラクターである楽天的な性分とよく馴染んでいた。有華が会うのはこれで二度目である。
「二十六秒……」テクセッタに近づくと、有華は運転席を覗き込んで言った。「……って、速いんですかね」
「うん、速い方。赤いパイロンは実験しまくってるから得意なんだよ。実際の……街中で車と車の間に縦列駐車とかだと、もうちょっと遅い。でも四十秒弱ぐらいでいけると思います」
「得意とか不得意とか、あるんだ」
「カメラで撮影した画像と、データベースの画像を見比べて判定……いわゆる人工知能ってヤツ。データが蓄積されて、増えれば増えるほど賢くなっていく。逆にいうと、慣れてるかどうかで得意不得意がばっちり出ちゃう」
「へー。人工知能かぁ」
有華は感心を装った。蠅が止まりそうなほど遅い動き。コンピューターの頑張りを褒めるべきだけれど、実用にはやっぱり不足だと思う。
「高速道路はあと一、二年でどうにかなると思うんだ。でも市街地になると、難易度が天と地ほど違うんだよね」四本木も苦笑する。「まだまだ、これからですよ」
「乗ってみようかな、アスカ号」有華は意を決した。「一人で乗る時って、やっぱ運転席限定なんスよね?」
「はい。いざというとき、ブレーキ踏んでもらわなきゃいけないんで」
納車のためにベガスから来たメンバーは総勢四人。エンジニア三名を引き連れているにも関わらず、四本木が自ら率先しデモに勤める。今も有華のために恭しく運転席のドアを開け、それから反対側へ回り込んで助手席へ滑り込む。ナビの操作も手際がいい。あっという間に経路を設定してみせる。
「……目的地はGNSS(※米国のGPS、欧州のGALILEO、日本の準天頂衛星といった「測位衛星」の総称)信号が届くところでないとダメ。屋内の細かい位置までは、まだ指定できません」
カエル面の中年男は終始楽しそうだ。我が子を送り出す父親の心境だという。
「地下の駐車場とかはダメなんだ。トンネルは?」
「ナビが進路上にトンネルがあると認識していれば、通り抜けることはできます。で、こんな風に目的地の入力さえ済めば、あとはサイドブレーキ解除でスタート」
有華は足下を見た。アクセルペダルもブレーキも備わっているが、足を乗せないまま、四本木の指示どおり左手でサイドブレーキを開放する。
テクセッタは前後のパイロンを起用にかわしつつ動き出した。駐車場の端へと向かって走り始める。
「えー、うそ。たったこれだけ? ……なんか拍子脱け。難しいプログラミングとか、そういうのじゃないんだ」
目の前でハンドルが勝手に切られていく様子は摩訶不思議。その軽快さに反して、乗り心地は穏やかそのもの。スロットルの開度が大人しい。
「あ……ここが道路じゃないってこと、わかってんですかコイツ」
「わかってる。だから徐行してます」
「人間よりおりこうっスねぇ。駐車場でも飛ばすDQNとかフツーにいるし」
「ドキュンって何?」
「あ……へへ。えーと不良かな。不良」
「燃費が良くなるように運転しますから、吹かすべき時は人間より吹かしますよ」
「エンジンの燃焼効率がいい回転数を使って……とか、そういうこと?」
有華が車に明るいと知って、四本木の目が光った。「そのとおり。燃費の改善は自動運転の一つの狙いでもある」
「他の狙いって?」
「……まず事故の削減、渋滞の解消。運転免許を返納した高齢者のための足。夜中ずっと走るトラック運転手の交代要員が減らせたら、運んでくる野菜の値段も下がる」
「凄いなぁ、コイツ」有華は柔和な車の挙動に、ペットのような愛嬌を感じた。「しかも……めちゃ簡単だ」
「運転免許を持ってない人に使ってもらうのが目標ですから、簡単じゃないとね」
四本木はグローブボックスを開けて、紙束を取り出した。「ほら、マニュアルも薄ーくしてます」
「これ、読まなくても走れますよ」
「iPhoneとかを意識してます。アレって、ほとんどマニュアルないでしょ」
有華は率直に言った。「やっぱちょっぴり怖いな。簡単すぎるっていうか……四本木さんは怖くない?」
「僕が怖がってちゃ、誰も乗ってくれないです。でも……」四本木は丁寧に言った。「本来、怖さは感じるべきだ。こいつは、車だから」
「怖さは感じるべき? どうして?」
「怖さがあればブレーキを踏むでしょう。車は止まってナンボです。こいつはまだ開発中の車両ですから……確かに、十万キロ走って無事故という勲章はある。安心はしてもらっていい。しかし、そもそも車は凶器だ。それを忘れてはダメ」
「難しいこといいますね」
「難しいよねぇ。そもそも車は矛盾に満ちた存在ですよ。アクセルを踏むと事故になる。アクセルを緩めると渋滞になる。馬力の大きなエンジンはおおむね重くて燃費が悪い。非力な車は総じて燃費がいいけれど、人気がない」
「ホントだ。矛盾だらけ」
駐車場をひとしきりテストランし終えて、二人は車を降りた。
「で……」四本木はポケットから鍵束を取り出した。「キーは二本お渡ししますが、鍵穴に差し込む必要はありません。ポケットに入れておけば反応する」
「スマートエントリーって奴っすね」
「合鍵は当社でも保管してます。それと、キーがなくても」
四本木はキーを有華にあずけてから、首から提げていたカードホルダを手に取り、車のドアに当ててみせた。
「僕のでは反応しませんが、岩戸さんの電網ゼロ種免許で解錠、始動できます。年内には、我が社の人工知能が、いわば岩戸さんのお抱え運転手になるわけです!」
それを聞いて有華は少々気分を害したが、表向きは平静を装った。四本木篤之は知らないのだ。岩戸にはすでにお抱え運転手がいるということを。その運転手がジムカーナ(※舗装路面で行う車のスラローム競技)の経験者であることも——。
誤字ハッケン
通り脱けることはできます → 通り抜けることはできます
直します!ありがとう。