第3話(四):小金井市:貫井北町:午後

 来客の予定は十五時。それまでに少し片付けて、車一台分のスペースを作るのが急務。でも、その前に。
 常代有華は配電盤のスイッチを手早くさばき、オーディオのボリュームに指をかけた。GEEがいなくても派手に鳴らさないと気乗りがしない。いつもと同じか、それ以上に。ズドン、と大きな音をたててスネアドラムからスタート。サイバークライム実験場の、体育館のごとく高い天井めがけ、バスドラムが拡散する。
 来るぞ。裂くようなギターが。落ち込んだ気分を吹き飛ばしてくれる金属弦の噴火(イラプション)が襲ってくる。今日、やっと笑えるかもしれないな——有華がそう思った矢先。
「な……んですか、こ、この音楽っ」
 女の金切り声がした。
 有華は広大な空間を見渡し、声の主を探す。
(誰?)
 紺色のスーツを着た丸眼鏡の女が、二階のキャットウォークに見えた。耳をふさぎつつ鉄製の階段を一段ずつ降みしめている——呻きながら。「うぇええええええ」
 めくるめく高速ギターに目を回しているらしい。
「あら……」有華は見知らぬ客を物珍しそうに観察した。「何か御用っすか?」
 女は身体を震わせながら、口に手をあてて近づいて来た。「うぷっ、で、電網、庁の、三枝です」
「電網、庁の、サエグサさん」
「つ……つ、常代さんですよね」三枝と名乗る女は、ずれた丸眼鏡を直せないほど弱っていた。「たたたた垂水局次長からお話はうかがってます」
「顔色悪いですよ。トイレとか行かれます?」
「ろろろ、ロックというやつが苦手で。ち、ちょっと止めておいてもらっていいですか」
 GEEが実験場に据え置いたオーディオ設備は破格の大出力を誇る。壁にはめられたすべての窓枠がびりびりと異音を放つほどだ。有華がiPodのストップボタンを押すと、建物全体が安定を取り戻す。
 と同時に、三枝はその場にへたりこんだ。
「げー、げげぇえええ」そして吐いた。
「そ……そんなにキモチ悪いっすか、ロック」
「ハァ……ハァ」
 それから三分ほど、二人の間に会話はなかった。
 有華は三枝をパイプ椅子に座らせ、扇風機をあててやった。あの右手に握りしめているくしゃくしゃになった名刺が、いずれ自分に手渡されるのだろうなと想像しつつも、それすら手放せないほどヘヴィメタで体力削られるなんてどんな育ち方してんだ、っていうかヴァン=ヘイレンに失礼だぜ——と思った。
「……私、こういうもんです」
 ようやく差し出された名刺には「電網庁保全本部総務課 主任 三枝典子」とある。
「ホゼンホンブ?」
「前は総務部だったんですが、明日から名前が変わって」
「霞ヶ関でお会いしたことないですね」
「九段下にいましたから」
「そっか。関東通信局だ」
「関東総合通信局、です」三枝はバッグからクロスを取りだし、丸眼鏡のガラスを神経質そうに擦った。「ところで……常代さん。あんなに大きなボリュームで、しかもノイズのごとき音楽を聴いていたら難聴になりますよ。お勧めできません」
「あ……はは」
「今からベガス社の面々がいらっしゃる。お客さんです。体調に悪影響が出ないとも限らない。そういう意味でも、お勧めできない」
「あー、こりゃどうも……すんません」
 こういう時、GEEなら喧嘩してくれるに違いない。自動車バカはロック小僧に決まってるとか何とか、啖呵を切ってくれるだろう。けれどGEEは出入り禁止の身。
 自分はただのアシスタント。電網三種の——どこにでもいる凡人だ。
 有華は相手の胸元にぶらさがるカードホルダをチラ見した。これみよがしな金とブルーの二重線。電網一種保持者。
 わかっていた。一種を持つには才能だけでなく「覚悟」まで必要だということを。自分のネット機器がサイバー犯罪の踏み台にされた時、問答無用で処罰される一種。自分で自分の身を守らなければならない、しかも二種以下の人々を正しい道へ導く責任まで担う一種。知恵と規範、両方で胸を張れる人こそ電網庁のスタッフにふさわしい。
 そんなの、夢のまた夢だ。

——能力だけでいうと、必要な人材とはいえないわね

 岩戸は辛辣に言った。まったく反論の余地がないと思う。有華は三枝という女を——遥か高見の一種保持者を——羨望の眼差しで見た。能力のみならず根性も座っているに違いない。音楽の趣味も、きっとクラシックか何か。
「あのう……」
 勉強のコツって何ですか? 有華はそう尋ねようとした。
 ところが機先を制して三枝が口を開く。「研究用車両の受け入れは十五時ですよね。まだ一時間以上ある。ちょっとだけお話、いいですか」
「あ……はぁ」
「実は、保全本部は人手が足りない。職員を絶賛募集中です。常代さん、受験勉強してくださいませんか」
「じゅ?」有華は顔をまっ赤にして言った。「受験……勉強っ!?」

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  1. 誤字ハッケン
    通り脱けることはできます → 通り抜けることはできます

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