香坂は最後の段ボール箱をまとめ終えると、部屋に残る理由を失った。初台の新庁舎へ移動し、荷物の梱包を解いてからでないと何もできない状態。スマホで時計を見る。まだ昼を回っていない。二十一時からは同じフロアの管理局におもむき、サーバーのシャットダウン作業に加勢する予定。午後が丸々と空いてしまった格好だ。
そして、岩戸の捨て台詞が頭から離れない。
(大化けしろって……どういう意味だ)
常代有華が出て行った理由について、自分の読みが的を得ているならば、呼び戻すことが香坂一希にできるとは到底思えない。新人が人事について講釈を垂れ、あるいは慰めても説得力が伴わない。それでも岩戸は行動しろ、という。それって——つまり。
(そうか)
香坂は一つ思い当たった。自分が何かにつけてひな型(テンプレ)にはめたがるという癖に。新人が人事に軽々しく意見することなど無駄。無意味。そういうレッテルを貼る。枷(かせ)を思いつく。だから人より先回りできるくせに——何もしない。自分に課せられた責任を全うするだけ。
かの女帝は、そんな、賢しいだけで消極的な態度を否定したのではないか。
(でも、なぁ)
仮にそうだとして。そのひな形を、類型を無視したとして。
僕に一体、何ができる?
香坂はしばらく席を離れず、思案にかなりの時間をかけた。
「電網庁特命課の香坂様……という方がお越しですが……はい……はい……お約束ではないそうです……ええ……はい」
制服姿の女性は耳から受話器を外すと、怪訝そうに香坂を見据えて言った。「高柳は多忙でして、お約束がなければ面会は難しいと思いますが」
「……じゃ、どうやったらその、約束は取り付けられ……」
受付係にあしらわれそうになった、そのとき。
警視庁の玄関からロビーに制服の一団が雪崩込んできた。中の一人が、携帯電話を耳に当てつつ、まっすぐ受付へと歩み寄る。
「やぁ……あなたでしたか」警視総監は一度しか会っていない若者の顔を覚えていた。「悪いね……時間があんまりとれないんだ」
「五分で結構です。ご挨拶に伺っただけなので」
「じゃ、そこのソファで」
警視庁の最高責任者と若造が連れ立って腰掛ける。その様子をさして珍しがることもなく、制服姿の連中が慌ただしく目の前を横切っていく。
「今日で最後なんです……霞ヶ関は。明日からは初台に出勤です」
「そうか。引越するって言ってたね」
「遅くなりましたけど、これ。新しい連絡先になります」
香坂は刷り上がったばかりの名刺を渡した。あの日、高柳と遭遇した時は配属されたばかりで持ち合わせていなかった。「常代さんには、高柳総監が訪ねてきたことを話しました。ですが、放っておいてくれ、叔父の相手をするなと釘を刺された」
「そう……ですか」紳士は受け取った名刺をポケットへ入れると、悲しげに頷いた。「そうでしょうね。お聞きになりましたか? 常代家の事と……次第を」
香坂は首を横に振った。余所の家庭が不和だとして、その理由を詮索したいとは微塵も思わない。
だから、ここへ来た理由をきっぱりと宣言した。
「あまり立ち入るような真似をしたくはありません。ですけど僕は……僕としては、伝言の役目は全うしたはずです。それをお伝えしたかった。僕が約束を反故にしたと思われるのは、心外なので」
「いやぁ……こちらこそ、面目ない。巻き込んだのは私のほうだ。わざわざありがとう」
「……寝覚めが悪いの、苦手なんです」
「寝覚め、か。なかなか殊勝な物言いをしますね」高柳は微笑んだ。「あなたのような義理堅い人が傍にいてくれる。叔父として嬉しく思います。あいつはハネッ返りですが、心根はとても優しい子だ。有華を……よろしく頼みます」
自分の見立てに間違いはない。常代有華が何と言おうと、高柳泰平は立派な男だ。香坂はそう思った。
あまり時間をとらせたくない。
これ以上深入りしたいわけでもない。
若者は自分から立ち上がって、頭を軽く下げた。
「お力になれず、すいません。何があったか存じませんが、関係の修復を願っています」
それだけ言って立ち去ろうとした矢先。
「……私が悪いんです。いや、違うな」高柳が立ち上がって言った。「本当は誰も、悪くはないんだが……どう接していいかわからず、ただ何年も時間が過ぎてしまった。会わない時間が永すぎて、だから余計に会いにくくなってしまった。何かきっかけさえあれば、また笑い会えると信じてるんです」
香坂はあらためて一礼し、踵を返した。
自分は義理を果たしたいだけ。名刺を渡すだけで十分。重たい事情があるのだとしても、仔細は常代有華の口から聞きたい。
そんな気分も手伝って、独りでに早足になった。