「僕が……組織に尽くせない人間だからですか?」
「え……何。何の話?」
岩戸紗英は狐につままれたという面持ちでいる。香坂はシャツの左ポケットに忍ばせていたスマホを取り出し、メールアプリを起動して見せた。
覗き込み、女帝はただ首をかしげている。「組織に……尽くせるか? 何これ?」
「……東京に赴任した朝、僕に届いた電子メールです。UNKNOWNという差出人に心当たりがまるでない。けど、スパムメールにも思えない。たぶん上司の誰かだと思ったんですが……岩戸さんじゃないんですか?」
岩戸はゆっくり首を横に振った。
「……このメールにまだ返信できていないんです。組織に尽くせるか。無責任に尽くせるとも答えられない。かといって尽くせないとも答えたくない。相手が誰か見当もついていない。転じて、自分は未熟……そんな自覚は持ってます。つまり……」
「…………」
「……つまり常代さんの事情を僕に教えても無駄っていうのは、僕が理解力の足りない未熟者だから……あるいは、組織に尽くせるかどうか怪しい半端者だから。そういう事ですよね?」
「なるほど。そうきたか」岩戸は苦笑する。「違う違う。そんな電子メールのことは知らないし、少なくとも私は仕事仲間として、キツネ丼君の才覚を疑ったりしたことはないぞ」
「じゃあ教えてください」香坂は食い下がった。「僕に教えても無理だというのなら、無理だと判断した理由だけでも教えてほしい」
子供の頃から秀才で通し、最高学府を経て今の自分がある。教えても無駄などと言われて、おいそれと引き下がれるものではない。だが怖くもある。だから身構えた。衝撃に備えて。
岩戸は苦笑しつつ言った。「ね、あなたにコンプレックスってある?」
「……コンプレックスですか」
「ないでしょう」
吹き飛ぶような威力は感じない。けれど確実に響く一撃だった。コンプレックス——劣等感。それに適当な感情に思い当たらない。あるとすれば。
「……あるとすれば……最初に就職した会社を辞めてしまったことです。キャリアとしては無駄足だ」
無駄足なんてもんじゃない、と思う。組織を一度裏切ったという過去、イコール「組織に尽くすタイプの人間ではない」という証し。だからこそ、あのメールにおいそれと返事ができないのだから。
「会社を辞めた。そのときの気分はどう? 無力感はあった?」岩戸は椅子に腰を下ろし、背もたれに身体を預けた。
「無力感は……ありませんでしたね。自分が望んで辞めたわけだから」
「じゃ、その程度のコンプレックスってことよね」
「……常代さんのは、もっと深い。だから僕にわかりっこないってことですか」
「世界に対する無力感、失望。それを感じたことがある人間同士にしか生まれえない、悲しい共感ってもんがあるのよ。ねぇ……あの娘、あなたに家族の話をした?」
「……いいえ。何も聞いてません」
「常代有華はプライベートに重い問題を抱えている。かなりの」
「そうなんですか」
「だけど、あなたには話さない。どうしてだと思う?」
腹立たしい煽りだった。けれど乗ってはいけないと思う。
「それは……面識が浅いからです。どうでもいい、ただの同僚だから……教える必要がない。それだけです」
「そういうところ、お馬鹿さんなのね」
件の才媛はまるで子供をあやすように言う。冗談でもなく、叱るでもなく。
「……」
魔女の流儀に合わせるしかなくて、香坂は一方的に追い詰められた。何も言い返せない。返しようが、ない。
「いい? あなたはスーパーマンなの」岩戸は手綱を緩めない。「颯爽としてて、知恵があって、優しい。傷なんてどこにもない人間。あの子、あなたのことが好きに決まってるわ。だから内緒にしてる」
「……」
「わかる? 秀才君」
「…………難解、です」
「つまりね……同情されたくないのよ。対等になりたいって、願ってるわけ。どう? かわいいって思わない?」
岩戸は立ち上がって右の拳を固め、まるで身動きできない香坂の胸を、軽く、そして真っ直ぐに打った。
「おいっ。大化けしてみせろ祇園狐。あの娘が電網庁に必要だと、本気で思ってるなら」
大化けしろ。言葉の意味を計りかねて、青年は戸惑うばかり。だが女は手荷物を抱え、背を向けた。がらんどうのオフィスを真っ直ぐ出口へと歩き去る。
ドアノブに手をかけ——最後に一度振り返って。
「……違うな。あの娘がかわいいって、本気で……思えるのなら」
そう言い残した。