香坂は段ボール箱の中から、二つのフォルダを取り出して言った。
「三百ページ分のプリントアウトなんて、するんじゃなかったな。喧嘩を仲裁するタイミングを逃すなんて、自分で言うのもなんですけど……間が悪い」
岩戸が半身だけ向けて、くすりと笑った。「あなたでもプリントアウトしたい資料があるのね。紙のない国から来たみたいな顔をして、とっ散らかった机の上を毛嫌いする癖に」
「大事なものだけは紙にしておきたいタイプなんで」
「ハッカーらしからぬ発言だ。コンピューターを信用しないの?」
「プロセッサはある程度信用してます。でもハードディスクは信用してません」
香坂は自分の作った真新しいフォルダを机の上に立て、表紙を岩戸の方に向けた。「……箕輪塾関連。垂水さんの信じられないほど分厚いフォルダを真似ないで、二つに分けるところが僕らしいところです」
岩戸は黙って表紙を見つめ、それから肩をすぼめた。「面白そうじゃない、それ」
「先週スキャンさせてもらったんです。パソコン上で読めれば充分だと思っていたんですが、目を通すうちに冷や汗がでてきた……プリントアウト級です。でも」
「でも?」
「喧嘩のほうが興味あるな。あの娘を泣かせるなんて並大抵じゃない」
「……」岩戸はまた窓の方を向いて、ブラインドを押し下げる。きっとロータス・エクセルが駐車場から滑り出す様を見届けたいのだ。
「常代有華は……警視総監の姪っ子なんですよ、ね」
「それがどうかした?」
「だから手元に置いてるんですか」香坂は語気に嫌悪感を含めた。「総務省傘下とはいえ、独立行政法人の職員を……辞めさせずに電網庁で働かせている。合法とは思えない」
「だったら? 誰かに注進する?」
「いいえ。でも軽蔑します」
「軽蔑か」岩戸はブラインドにかけていた指を離し、香坂の方に向き直った。「電網庁は国民を監視、弾圧するための巨大なサイバー暴力装置。いずれ肥大化し、警察を取り込んで真の暴力装置へと進化する……」
ネット自由化連絡会のトップページで謳われる誹謗中傷のフレーズを岩戸がさらりと諳んじる。嘲りの色が瞳に宿っている。
「ネットにはそう書かれてます。その狙いが本当なら、常代有華は警察とのパイプ役として使える……まさか、そう思っているんですか? 本気で? だとしたら軽蔑に値する。軽蔑級です」
岩戸はうんざりという顔をした。
沈黙が続く。だから香坂は話題を変えようとした。そのときだ。
「ね、あの子が泣いてこの部屋を出て行った。どうしてだと思うの? 新米君」岩戸が言った。
「転属希望の件、でしょう?」
「だからさぁ、涙の理由よ」
「…………常代さんは……自分を見て欲しいんです。警察幹部の親族としてではなく、自分自身を評価してほしい。ところが転属は認めてもらえない。それが悔しい。違いますか」
岩戸はまっすぐ香坂の目を見た。「さすが祇園狐……といいたいところだけど、五十点」
「……正解を教えてください」
「あの娘はコンプレックスの塊なの。それが解ってあげられないと百点取れない」
「教えていただけないんですか」
岩戸が含みを込めて言う。「教えても理解できないってこと、世の中にはあるんだよ」
喧嘩を売られた。そう思った。だから。
香坂は思いきって口にした。
「僕が……組織に尽くせない人間だからですか?」
香坂の脳裏に焼きついていたイメージが、強くフラッシュバックした。あのときと似ている。そうだ。あのときもこんな風に、朝早く、広いオフィスに呼び出されて。
——うちの会社が組織としてダメだってことは、俺もよくわかってんだ。
半年前の出来事だった。最初に就職したセキュリティ系のソフトベンダー、それを率いる三〇歳半ばの社長が、自分だけを会社に呼び出した。ハッカー連中がまだ寝静まっている時間に。
——お前は優秀だ。言ってることは正論。でも、「組織が脆弱な時期は、優秀すぎる社員を雇わないほうがいい」ってアドバイスも世の中にはある。知ってるか?
香坂は自分の主張を繰り返した。時代は変わりつつある。スマホとかタブレットに囲まれて育つ子供は、積み木でも組み立てるような感覚でゲームぐらい作ってしまう。我々プロも変化を恐れていては置いて行かれる。JAVAが使えるから食いっぱぐれない、なんて感覚じゃあお粗末。そういう危機意識を持ちましょう、と言っただけです。せめて、プログラミング言語ぐらいは、新しい物を勉強し直す気概を持つべきだ。違いますか。間違ってますか僕。
——否定はしないよ。けどなぁ、いつの時代だって最先端の言語を颯爽と使いこなせるのは忙しいプロじゃなくて、暇のたっぷりあるアマチュアだ。銀行の基幹システムじゃ、今でもCOBOLのコードが動いてんだぜ。COBOLだぞ!?
それでも我々は新しい言語を選択する勇気を持つべきです。生産性を重んじるならば。
——重んじるからこそ、古い言語を選択する判断もありえる。そう決めて必死な奴が……お前の上司が、お前の持論を聞いたらどう感じるかってことさ。
辞めて欲しいと思うでしょうね。
——だろ? 誰かに辞めて欲しい人間だなんて思われるのは面白くないよな? そう思われないように、ちょっとは努力してくれてもいいと思うんだ。
香坂は返事を怠った。意図的に。それを社長は見逃さなかった。
——まさかお前……辞めたいのか? 俺にクビって言わせるよう仕向けてんのか? だとしたら、本気で怒るぞ。