第3話(二):千代田区:霞ヶ関:午前

 常代有華はここ一週間、あまり眠れないでいる。甲斐原の逮捕劇以来、岩戸紗英と顔を会わさない日々が続いていた。避けられているような気配を感じている。
 この日は特に憂鬱だった。月末の忙しさも極めつけで、電網庁が新庁舎へ移転する引越の最終日でありながら、と同時にベガス社から研究用車両がNICTへ納品される日でもある。午前中には霞ヶ関の片付けをすべて終わらせ、午後は国分寺へ向かわねばならない。
(午後が……めんどくさいなぁ)
 エレベーターで二号館の十一階へ向かう最中、有華は作戦を練った。そうだ。岩戸さんに会えたら、あえて顎の擦り傷を勲章のごとく見せびらかそう。甲斐原の逮捕劇を立派に成し遂げたと胸を張ってみよう。垂水さんにもらったお小言は——独法職員という立場で怪我をすれば岩戸を困らせるぞ、という忠告は——たぶん当人に伝わっている。でも、あえてそれを話題にすることで流れを変えられるかもしれない。有華はエレベーターを降りてきびきびと歩いた。リズムを速めた。そうだよ。持ち前のバイタリティで形成逆転といこう。きっと岩戸さんは褒めてくれる。慰めてくれる。これまでもそうだったし、これからも——そう信じて特命課のドアを開けた。
 だから。
「……おや……すみ? 私がですか?」意外な指示に面食らった。
「一ヶ月ぐらい、どう?」
 ブラインドから差し込む朝の陽光を背負い、岩戸は微笑む。「ずーっと駆け足だったじゃない?」
「今日……車が納品されるからですか? 自分で運転してみたくて、だから……」
「え?」
「……魔女の運転手はお払い箱?」
「はは。そうじゃなくて」岩戸は椅子に背中を深く預け、天井を見上げた。「ここを引き払うタイミングでちょっと休憩。グッドアイデアでしょ」
 有華は唇を震わせた。
「私が……怪我をしたからですか。常代有華は高柳総監の姪。だから警察の圧力が」
「まさかぁ。考えすぎよ、考えすぎ」
 岩戸の表情は変わらない。寸分も。有華はその態度に違和感を覚えた。
「じゃあ休みません」だから拗ねてみせた。「アタシはNICTの所員です。国分寺の指示で動きます」
 それが逆効果だった。
「そりゃあそうだね。ま、とにかく電網庁には来なくてよし。私からも国分寺に一言、言っとくから」岩戸はそうあっさり言ってのけたのである。
「ちょ……ま、待ってください。岩戸さんこそ、休暇取るべきじゃないっすか? アタシなんかより、よっぽど働いてる」
「私? 休もうと思ってるよ、私も」
「ウソ」
「信じてよ」
「信じません」
「そうよね。ゆかりん、私を信用してないもんね」
「……え」
「ご実家に帰ってないそうね。いつから?」
 風向きが——変わった。「……忘れました」
 忘れるはずがない。もう三年も帰っていないのだ。
「こっちに……霞ヶ関に絡み始めた頃から。じゃなくて?」
 それは誤解だ。関係ない。けれど。
「……覚えてません」しらをきる。
「どうして私には内緒?」
「……」
「私はこう解釈してるの」岩戸は事務机に両肘を突いて、有華の顔を下から覗き込むようにした。「実家に帰らないのは岩戸紗英の、魔女の野心を見極めきれないから。仮に岩戸が失脚して、常代有華が岩戸の道連れになっても、高柳総監の……あなたの叔父さまの顔には泥を塗りたくない。岩戸と叔父さんのパイプ役に、自分はなるべきじゃない」
 有華がまったく思いもよらないことを、岩戸はすらすらまくしたてる。
「すいません。おっしゃってる意味が、さっぱりわかりません」本音だった。
「じゃあ聞くわ。なんで帰らないの」
 言いたくなかった。言えば同情される。過去に戻される。
 戻るのは。
 戻るのはイヤ。「……個人的な問題ッス」
 立っているのが辛い。岩戸さんが、あの魅力的な力のある瞳で自分を見る。心の奥底まで見透かそうとしてくる。不思議と痛みや辛さは感じない。何もかも喋ってしまいたくなる。岩戸紗英という人間の器量がそうさせる。けれど。有華は歯を食いしばった。自分のプライベートはアピールにならない。むしろ多忙な人たちにとってお荷物になる。足を引っ張りたくない。それは最低限の、最小限の——努力だと思うから。
 岩戸の表情が変わった。悲しみの色が瞳に浮かぶ。
「私と一緒じゃレールを外れる。どこに行くかわからない。そう感じてない? 無意識のうちに高柳総監を守ろうとしてる。そうじゃなくて?」
「そんなこと、考えたこともない! ……です」これも本音。本音なんです。嘘じゃない。
「本当? じゃあ警視庁と目と鼻の先にあるこの建屋に出入りしてて、なのに叔父上を……高柳総監を避けてるそうね。それはどうして? 説明できる?」
「……」詰んだ。詰んでしまった。
「こないだ私、言ったよね。潮時かもしれないって。それはね」岩戸はゆっくり言葉を置く。「ここから先は得体が知れないから。楽しいことばかりじゃない、ってこと。むしろ苦しいことばかり。ううん……怖いことばかり、かも」
 黙ってうなずく有華に、岩戸は畳みかける。
「一ヶ月。それだけあれば、結論は出せる?」
「……結論ってなんですか」
「私についてくるか、それともここで退くか」

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