第3話(一):千代田区:霞ヶ関:午前

「簡単にいえば箕輪先生は規制経済論者。規制の緩和がもたらす破滅を予見して、むしろ積極的に規制を作り、新たな需要を喚起する政策をたくさん提唱していた」
「経済活性化の金科玉条は、規制『緩和』だと思っていました」
「右肩上がりの頃はね。だが時代が変わった。今は緩和よりも規制が経済を活性化する……テレビのデジタル化も、その一例さ。買い換え需要が加速する。ネット免許制も同じ理屈でやってる」
「言われてみればそうですね……でもテレビのデジタル化には局側が猛反発してる。国は苦労してると聞いてます」
 香坂は同期の総務官僚に聞かされた話をそのまま口にした。アナログ停波を二〇一一年より前倒ししようと取り組んでいるものの、ネゴがうまくいかないという。
「放送業界は嫌がるに決まってるんだ。設備投資が嵩んで、懐が痛む。内輪で勝手に進めるから、放っておいてくれと言いたいのさ……一方で電機メーカーは新商品を売りたくてうずうずしている。そこで行政の出番」
「嫌われ役を買って出るわけですね」
「イエス。経済の活性化ってのは、法人や個人の財布を無理矢理こじ開けるってことだから、一定量の反発は食らう」
「ふむ。じゃあ、どうしてウチの……電網庁へのISP統合はうまくいったんですか。反発はあった筈だ」
「簡単ではなかったよ。しかし通信業界の実情は、おおむね放送業界と真逆だったのさ。モバイル端末の高性能化、クラウドの需要増。通信量は指数級数的に増えていく。それに応じてトラブルも増す。サイバー攻撃が増える。セキュリティの負担は高くなるばかり……ところが、過当な競争で通信単価が上げられない。むしろ下げろと世間がうるさい。国が手を差し伸べなければ万事休す、だったのさ」
「……なるほど」
 垂水は指を伸ばし、フォルダを突っついて言った。「ま、こいつを読めばわかるようになる。電子化できてないんだ。スキャンしてくれるかな」
 それを香坂は、上司に与えられた罰ととらまえた。「……単純作業で頭を冷やせってことですね」
「そうじゃない。これを読んでおくべき人間と、そうでない人間がいる。祇園狐には知っておいてもらいたい。世界のうねり具合をね」
「世界の……うねり具合」
「それと、忠告だ。箕輪浩一郎は五年前に失踪。現在も行方不明」
 香坂は目を丸くした。「失踪!?」
「そして、猪川代議士は箕輪と同門。もともと親交が厚い。岩戸とも顔馴染みだ。国交大臣におさまる、遥か前からね」
「……箕輪教授がやられ、猪川代議士がやられて……次は岩戸紗英。つまり我々ということですか……敵は一体……」
「大勢さ」
「……大勢」
「たとえばベガス社が赤字に転じて喜ぶヤツ。たとえば政治家の出世を反古にして喜ぶヤツ。そういう連中の総和が襲ってくる」
「それがネ自連?」
「あれは単なる器だ。スポンサーの顔や影は見えない仕掛けになってる」
「仕掛けって何ですか? ウチはそのからくりを暴くために動いてる? そういう……意味ですか」
「……」垂水は唐突に言葉を切った。
「これ以上は聞いちゃいけない、って顔だ」自分のようなヒラには教えられない事情がある——そう香坂は勘ぐった。「所詮、新人ですしね……いや、もしかして僕がお試し期間だからですか?」
「気にするほどの事じゃない」垂水は笑った。「このファイルに綴じられているのは全部、公開ずみの情報だ。まずこれを読め。その先は網安官といえども共有不可……だけど君の、配属が正式に決まりゃあ教えてやれることも増えてくる」
「はい」
 香坂は身の程を知って唇を噛みしめた。自分はまだ信用を勝ち取っていない。それには数ヶ月、いや、もしかしたら数年かかるのかもしれない。

——組織に尽くせるか?

 あの謎めいたメールの一文が思い起こされた。
「一つだけ、教えておこう」垂水はか細い声で言った。「ストロングホールズ。このキーワードで情報を漁ってみるといい。ただし正面切って検索しても何も出てこないから、そのつもりで」
「それがヒントですか」
「ヒントというより答えだなぁ。カーダープラネットって、聞いたことあるだろう……ブラックハットが集まるコミュニティサイト。犯罪者の巣窟」
「名前ぐらいは。管理人はロシア人でしたっけ? 確か、閉鎖されましたよね」
「摘発が続いたから、雲隠れしたのさ。でも無くなると思うかい? その手のアングラサイトが」
「……思えませんね。亜種がどんどん現れる」
「世界中で日々ハッカーが生まれては消えるように、くすねたパスワードを売買するブラックマーケットもまた生まれては消える。当局が何度摘発したところで、無くなりはしない。手を変え品を変えて」
「……悪い病原菌みたいですね」
「テクノロジーが進化する限り、それをハックしようとして挑戦者が現れるのさ。言い換えると、新しいシステムは必ず脆弱性を抱えて生まれるから、その小さな亀裂をこじあけてやろうというブラックハットが後を断たない。そいつらは成功した暁に、どこかの誰かのサーバーを手中におさめ、データすべてを手に入れる。しかし意味不明だ。そのデータが欲しかったわけじゃない。ただハックにチャレンジしたかっただけ」
「わかります。仮に、脱税疑惑のある食品メーカーのサーバーがこじあけられたとしても……ハッカーに経理の知識はないから、データに裏帳簿が紛れていたとしても、それを嗅ぎつける能力はない。ハッカー一人で脅迫なんてできっこない」
「……コンピューター・ギークはいつだって宝の持ち腐れ。金に換えたい。だから常に売り先を探している。そんなオタク連中のために、景品交換所は永遠に不滅だ。その最新型がストロングホールズ。サイバー犯罪のいろんなプロジェクトがビジネス案件として流通している。参加したいやつは、手を挙げるという仕組みだ」

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