香坂一希は開発局の大きなオフィスを、そのど真ん中を小走りで突き進んだ。垂水昂市の大きな背中を見つけたからだ。
「おかしいです、局次長!」大きめに声を張った。それに大勢が反応し、香坂に視線を投げてくる。
垂水が歩みを緩め、浅く振り返った。「そう?」
「おかしい。甲斐原の携帯電話は電網庁が押収したんだ……こっちで調べるべきです」
「わかるよ、言いたいことは。でも状況が変わってきてる」
「これじゃウチは……電網庁は警察の下請けじゃないですか」香坂は垂水に追いすがる。「電網公安官は所詮、ネットのおまわりさん。そういうことですか?」
垂水は立ち止まらず、たしなめるように言った。
「あっちにもデジタル・フォレンジック(電子鑑識)のチームがいる。優秀だって聞いてる。心配しなさんな。バス事案が事故から事件に格上げされて、捜査本部が動き出すからには箝口令が敷かれて当然なんだよ」
「もっとはっきり言ってください…………ネット自由化連絡会。アレにすっぱ抜かれたことで、電網庁のガサ入れは事前に洩れていた可能性が取り沙汰されている。違いますか? ウチは機密のゆるい、脇の甘い組織だと思われた。そうですね?」
そこまで言われて、ようやく垂水は歩みを止めた。「……こっちが警察のケツを蹴りあげたのは間違いないんだ。貸しは作った。な、力抜こう。どうした? 祇園狐は飄々としたキャラじゃなかったのか」
「……」
「常代君と空手小僧の二人に、怪我をさせて申し訳ないと感じてる?」
「……僕が言い出したことですから、無責任ではいられません。それに」
「それに?」
「……バス事故を装って猪川大臣の息子が殺された。だとしたら、その動機が気になります」
「動機ねぇ。何だと思う?」
「…………とぼけないでください。我々は警察任せにできないはずです。攻撃対象には、ずばり電網庁自身が含まれている」
「……つまり?」
「つまり……ネット免許制を肯定し、同調するような立場の人間あるいは組織を……猪川大臣やベガス社を、罠に陥れる勢力が暗躍している。そんなムードがネットに充満している」
「どうしてそう思った? 根拠でもあるのかい」
「……お流れになった合同記者会見です。東京ミッドタウンを会場に、自動運転の公道実験を高らかに宣言する。国交省、ベガス社、警察庁。三者揃い踏みの大々的なセレモニーが計画された。けれど総務省は列席しない予定だった。なんでです? 総務大臣は? 電網庁長官は?」
「…………」
「あの会見は岩戸紗英が段取った。なら電網庁の、総務省のお手柄になるべき。しかし敢えて誰も列席させない。その理由を僕はずっと考えていました。要するに総務省は……いや、岩戸さんは目立ちたくない」
「…………」
「電網免許制度はメディアから目の敵にされている。ネットワーク事業者を束ねて誕生した電網庁は、監視社会の担い手になる……将来のファシスト集団だと怪しまれている。だから目立ちたくない。しかしその一方で、電網免許が役に立つ具体例はどんどん増やしたい。つまりお流れになった合同記者会見は、電網庁にとって仕掛ける価値が高く、国交省はそれに一役買う形で乗ったものだ。岩戸さんが要望し、ベガスと猪川大臣が引き受けた。ところが猪川の息子が殺される。ベガスのバスがひっくり返る。肝を冷やすべきは国交省の役人でもなく、ベガスの役員でもない……」
岩戸紗英であり、垂水昂市であり、部下である僕らだ。香坂がそう言いかけたタイミングで——山のごとき局次長の肩が、微かに動いた。
「うん……いいね。いい勘してる。ちょっと場所、変えようか」
一階のカフェテリアに移動しよう。席をとっておいてくれ——その提案を受け、先に移動した香坂の目前には今、二つのプラスティック製カップが鎮座している。その二つが二つとも汁気をこぼすほど、テーブルの上に重たいフォルダが「どすん」と置かれた。香坂は支えるべく手をさしのべ、と同時に、局次長がそれを片手で運んできた事実に閉口した。垂水は体格も立派だが握力も非凡。軽い感動を覚えるほどにファイルは分厚く、重みがあった。背表紙には「箕輪塾関連」というタイトルが記されている。
垂水はテーブルをはさんで対面に座ると、手を伸ばし、香坂に向けたフォルダの冒頭を押し広げた。男の顔写真が貼り込まれている。
「彼が箕輪浩一郎。人文系の東大教授。専攻は近代社会システム。有名な箕輪マップの提唱者になる。一枚めくって」
香坂は次の頁を探り、折りたたまれた紙の端を引っ張った。
B4程度の大きさに広がる。「箕輪……マップ?」
グラフのように横軸と縦軸があしらわれ、その中に大きめの楕円が点在し、中に「地上デジタル放送の開始」や「ETC料金所の全国普及」などという文字列が書き込まれている。横方向は年度、縦方向はテクノロジーの進歩を表しているらしい。
「いわゆる、ロードマップ……ですか?」
「そう。箕輪先生が考えるところの、二十一世紀において日本が歩むべき道……彼は人文系だけど、元は情報工学の専門家だから複雑怪奇に仕上がってる。マップが最初に書かれたのは一九九七年。以来、細かく改訂を重ねている。どう思う?」
「……地上デジタル放送の開始が二〇〇三年……ETC料金所の全国普及が二〇〇五年で一千カ所……自動車免許証のIC化開始が二〇〇六年……インターネット免許制が二〇〇八年とある……。うーん、これって予想なんですか?」
マップの端には二〇〇二年五月改訂、と記されていた。
「次、めくってみろ」
翌頁には、実際にそれぞれが実現した年度が書き込まれたリストがあった。垂水自身のお手製だろうか、二〇〇八年で止まっている。香坂は念のために持参したノートPCを開き、検索エンジンを活用すべく数回キーを打って、それからこう答えた。
「インターネット免許制は別にしても、結構……当たってるんじゃないですか。凄いな。知らなかった……」
「実は予想じゃないんだ」
「へ?」
「このスケジュールを守ろうとしているんだよ、箕輪先生の教え子たちがね」
垂水は分厚いフォルダを閉じ、「箕輪塾関連」というタイトルを指差した。
「それが……箕輪塾」
「通称ね。正式名称は高度情報通信戦略……なんたらかんたら委員会。長ったらしい。総務省では、岩戸紗英が箕輪の直系の門弟だ」
「……門弟」