第3話(一):千代田区:霞ヶ関:午前

 
 岩戸紗英は瞠目した。
「ふぅん…………岩戸を通すな、って指示されてるわけか」
 エスカレーターを登りきって警察庁のゲートへ歩みを進めた矢先——制服の一団が自分の行く手を阻んでいる。
 先頭の一人がこう告げた。
「駐車場へご足労願います。車の中で話がしたいと……小笠原が」
「私と会話しているところを、誰にも見られたくないって意味? 失礼な話だこと」
 三人の警察官を従えて中央合同庁舎第二号館のロビーを横切りながら、岩戸は今日が長い一日になるだろうと予感した。
 昨日の逮捕劇。電網庁が公務執行妨害で捕らえた二人、甲斐原と島﨑は車両整備のプロ。押収したPCからは大量の車載ECUプログラムが発見された。中でも目立つのは大型バスの違法改造、ハッキング作業の痕跡。その事実に霞ヶ関では激震が走った。国交省でも警視庁でも県警でもなく、総務省傘下の新造組織が流れを変える——それには、想像以上のインパクトがあったらしい。
 気がつくと、岩戸の目前に青いマイクロバスがあった。警視庁所属の遊撃車。中央のドアが大きく開かれ、岩戸だけが中へと通される。
 中程の座席には馴染みの中年男二人が深刻な顔で陣取り、一台のPCを覗き込んでいた。岩戸は憮然としながら傍に腰を下ろす。
「こっちが呼び出されたのに入れないなんて、失礼な話ですね」
「ちょっとワケアリで」黒く日焼けした海老群が片手を挙げ、白い歯を見せた。警視庁公安部、公安局長。全国の公安警察を率いる実質的なリーダーである。
「バスの件で刑事部が表立った動きをはじめてる、とは聞いてますけど……うちの人間が何か、邪魔でもしましたか?」
「捜査本部が葛西署で立ち上がった。どうにかして人選には口を出したいと思ったんだけど……無理だったよ」
「人選? ……どういうことです」
「突っついたんだ、蜂の巣を」禿げ上がった小笠原が頭を撫で回した。弱り顔である。警察庁警備局局長、こちらは公安を率いる警察官僚の重鎮だ。
 海老群がノートPCの液晶画面を岩戸の方へと向けた。だからブラウザの中で大写しになっている写真と相対する。自分の顔。岩戸紗英の顔だ。といっても、このURLに晒され続けているおなじみの写真で、それ自身に驚きはない。ネット自由化連絡会——電網庁を目の敵にする匿名の書き込みで成り立つ、ブログや掲示板だけのウェブサイトである。
 驚くべきは今朝方更新された中身だ。トップ画面に〈電網庁の横暴・抜き打ち検査のいきすぎた実態〉なる記事が貼られている。文字列の合間に、ベガスの整備工場に進入したマイクロバス二台の写真。蹴られて怪我を負った従業員は全治一ヶ月、という身も蓋もない指摘。そしてクローズアップされるおきまりの〈総務省の魔女〉——岩戸紗英の顔写真。
「いつものことです」魔女はそう言って力なく笑った。
 本当は背筋が凍るような思いをしている。けれど顔色に出さないようにした。記事が出るにはどう考えても早すぎるのだ。その上に現場写真まで。明らかに。
 明らかに——。
「いつも通り、で片付けるべきかな」海老群はきっぱりと言った。「野良記事にしては早すぎると思う。情報、どこかから漏れた可能性あるね」
 岩戸は表情を変えずに応えた。「昨日のガサ入れ……より前に? それとも後?」
「わからない。どこからどう洩れたか。洩れてないのか。そっちも内偵はしっかりやってほしい。僕らも出来る限り、捜査に口出しするつもり」
「捜査に口出しって……まさか天下の警視庁刑事部を信用できないってこと?」
「捜査本部が立ち上がる場合、所轄に赴く捜査員の人選は常に問題にすべきなんだ。偏っていないかどうかチェックすることで、いろいろ牽制がきくんだよ。ホコリがたつこともある。でも今回は間に合わなかった……だから、別の方法で探りを入れるつもり。用心に越したことはない」
 警察は二手に割れている。それを岩戸も重々承知していた。
 電網庁と合同でサイバー空間の公安組織を立ち上げるアイデア——賛成派には小笠原、海老群を筆頭とする警備系幹部が名を連ねる。逆に反対派の多くは刑事系幹部。表向きの理由は「警察の独立を重んじるべきだから」。しかし本音は別のところにある。国民を監視する機能、つまり公安警察が力を持ちすぎて、刑事警察とのバランスが大きく崩れる可能性を危惧している。早い話、警備系幹部と岩戸の蜜月が気にくわない。あからさまな嫉妬。それが海老群と小笠原の意見だ。
 今回のリークが警察内部の仕業だとすれば反対派の所業。そんな連中がバス事案の捜査に深く関与すれば、捜査を進めるにつれ、一部始終が「どこかへ」筒抜けにならないとも限らない。俺たちはそこまで計算に入れている。だから電網庁も内偵は進めるべきだ。海老群の鋭い目が、そう語りかけてくる。
「……」岩戸は返答に窮した。
 実は最近、電網庁は不祥事を起こしたばかり。女性職員のフィッシング行為。幸い表沙汰にはならなかった——などという説明は憚られる。折角、きな臭い整備士を逮捕して点数を稼いだばかりだというのに。
 小笠原が口を開いた。「俺の耳にもいろんな話が飛び込んできてる」
「いろんな、って?」
「いいハナシも悪いハナシも」
 岩戸が不敵に笑う。「小笠原さんのいろんな……に、グッドニュースが混じってた事ってあるかしら」
「そう言うな。これでもポジティブに考えようと努力してるんだ。ともかく電網庁が甲斐原という男を挙げたのは、いろんな意味で正解だったってこと。但し」
「?」
「怪我人……出したらしいね。例の」
 岩戸は重々しく言った。「常代……有華。軽傷ですみました、けど」
 男二人が揃って口を一文字に結んでいる。当然だ。総務官僚が独法職員を顎で使い、それがこともあろうに警視総監の姪。スキャンダル御法度の問題児、その有華が怪我をした。一歩間違えれば、また〈岩戸の野心云々〉と書かれる。誹謗中傷を生き甲斐にするネットの野良犬たちに、餌を播くようなもの。
「……迂闊でした」と告げ、岩戸は頭を下げた。
 海老群が嘆息する。「……ねぇ。こっから先、バス事案はなるべく警察に任せてよ。間違いなく、生傷が絶えないと思うから」
「……そう思います」

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