「げ」有華は顔をしかめた。「……私のせいじゃないよね」
〈わからない。僕は甲斐原が車の中で二回電話してるはずだと思ってる。一回目は、誰かからかかってきた。それで電網庁の立ち入り検査を知った。だから車に青いPCを置きっぱなしにしようと判断する。で、今度は甲斐原が島崎に電話をかける。青いPCをピックアップして、カスタマーセンターを離れろという指示だ。それから甲斐原は空のバッグを肩にかけて、車を降りた〉
「二回電話してた可能性、あると思う……それぐらい時間かかってた」
〈一回目の電話が誰からなのか、そこが気になるんだ〉
「どうやって調べるつもりなの」
〈甲斐原については、例のノートPCだけじゃなくて携帯電話も没収済み。時計もね。とにかく隅から隅まで調べ尽くす〉
「時計?」
〈台湾製の、ウェアラブル・コンピューター的な物を持ってたんだ……小さいけどタッチパネル式のね。最近流行ってるやつ。こいつも違法ネット機器として没収できる〉
「……ふぅん」
有華はバッグの中から顔を覗かせていたスイス製の高級時計を手に取った。男物、ちょっと成金趣味。ライフル銃とセットで使うアレ——GEEからの預り物だ。これもウェアラブルコンピュータだと聞いている。きっといろんな機能があるのだろうけれど、詳しくはわからない。
「キツネ丼も、時計とか興味あるんだ?」
〈どうだろ……画面が小さいから、そんなに興味ないかな。時間はスマホで見るよ〉
「あ……そ」
〈そういえばナナさんが〉
「おふっ!?」突然、女の名前が出た。シモネタ美女コンビの片割れ、眼鏡スレンダーの残念系アラフォー・真宮ナナ。それに驚いてしまって、だから有華は——妙な声を出した。
「ん、な、ナナさんが……何?」
〈合コンで知り合ったイケメンに、めちゃくちゃ高い時計をプレゼントして、見返りにフェイスブックのアカウントをおしえてもらったって言ってたけど……〉
「へぇ。……苦労してるなぁ、あのヒト」
〈本当だと思う? かなり美人なのに。ちょっと癖はあるけど、男には苦労しないと思うんだ、僕的には〉
「……」有華は苛々をつのらせた。面白い話ではないのだ。でも悟られないように、声にあらわれないように努力した。
〈僕だったら、もらっちゃって舞い上がるかもな、って〉
確かにナナさんは美人。それはわかる。嫌な人じゃない。
で、も。
「…………へー」
有華はベッドの上にいたビバンダムのぬいぐるみを手に取った。
大きく振りかぶって——壁にぶん! と投げつける。「……大人の色香が漂ってるって、言いたいわけ」
〈……あ、ごめん。先輩たちが来た。もう切るよ。また明日、連絡する〉
唐突に電話が切れた。部屋が静まりかえる。
有華はあらためて「タイヤのお化け」を手にとる。ベッドに寝転んだまま、頭上へ高く放った。
「ふん! だ」
鋭い蹴りを真上に放つ。静寂を切り裂く。「……馬鹿キツネっ」
ばふ。八つ当たりされたビバンダムが空気を吐く。
ダウンライト一灯に照らされたオフィスの片隅。メールチェックを済ませれば帰宅できるという段になり、ようやく香坂一希は自覚した。
「……しまった」
まただ。また常代有華に礼を言うのを忘れた。
引越の準備が最終段階に入った、中央合同庁舎第二号館・十一階。特命課の居室にも荷物はほとんど残っていない。岩戸と有華が兼用で使う机が一つ、あとは自分の机が一つあるだけ。その引き出しにオレンジの紙袋が入っていた。中を開けると「落としたらバチ当たりでしょ」というメモと供に、御守りが一つ。明らかに自分が母親から預かった五枚中の一枚——「技芸上達」である。一週間ほど前から見当たらず、やっぱり縁起物を裸でポケットに入れたりするもんじゃないと後悔していた矢先、かの段取り娘がどこかで拾ってくれたらしい。ロータスの助手席にでもあったのだろうか。
(まぁいいや……会えた時に、顔を見ながら礼を言うべきだ)
緒方から「有華が叱られて落ち込んでいる」と耳にして、電話してみたまでは正解だった。でも明るく振る舞おうと努力するあまり、肝心な事を忘れてしまった。
(礼を言うなんて、急ぐことではないよ)
実のところ急ぐのは苦手なのだ。何でもじっくり腰を据えて取り組みたい。有華と自分は正反対だと香坂は思う。ネットサーフィンなんて、のんびりやってこそ面白い情報を拾うことができるのだ。プログラミングもそう。一発で美しいプログラムを書くことは不可能。再デザインこそが最良のデザイン方法だと、「どうしてオタクはもてないか」のポール=グレアムだって言ってる。言ってたと思う。時間をかけろ、時間を惜しむなってことだ。
でも。でも、それじゃあ間に合わない瞬間だってある。
特に今日のような大捕物において、香坂一希のペースは足を引っ張る可能性がある。そう思い知らされた。あの猫のごとく俊敏な小麦色の野生娘。常代有華が黒髪をたなびかせ、風を切って突っ走った。だからこそ流れが変わったのだ。そうでなければ、甲斐原と島﨑はまんまと逃げおおせていたかもしれない。
彼女には難しい局面を打開する力がある。それって——いったい。
いったい何なんだ?
「……バースト転送、か」
香坂はノートPCに向かうと、興味本位でキーを叩いた。検索エンジンに「常」「代」「有」「華」と入力。リターン。
そして、ずらずらと並ぶ検索結果に呆然とした。
なんだ、これ——?