「実はな」GEEは神妙に言った。「岩戸はん気がついてるみたいやで。ゆかりんが、ずっと実家に帰ってないこと」
有華はハッとした。まさか岩戸にバレているとは思わなかった。
有華の実家は国分寺市にある。総務省の研究機関NICTは目と鼻の先で、縁あって就職が叶った。後に有華は新宿で一人暮らしを始めるが、経済的に独立したかったからではなく、実家から遠ざかりたいが故の選択であった。NICTから電網庁への転籍が実現すれば、国分寺くんだりまで出向くことは半永久的になくなる。そういう意味で都合がいい。
にしても、実家と距離を置きたいという心情がどうして岩戸にバレたのだろう——正月にしろ盆休みにしろ、用もないのに国分寺まで出向き、土産にスイーツを買って、このケーキ有名なんですよ、このパティシエは帰国したばっかりで云々などと、さも帰省したように話す努力までしていたのに。
「……ギィさん、告げ口したな?」
GEEが口を尖らせる。「阿呆。告げ口してウチに何の得があるねん」
「えー!」有華はハンドルから両手を離し、運転席で大きくのけぞった。「……なんでバレたんだろ?」
「NICTに行く用事が無くなったら、ゆかりんは実家にますます寄りつかなくなる……岩戸はんは、そうさせたくないと思うてる。とか」
GEEの分析はなかなか鋭い。けれど。
「そんな事が理由で、転籍させないような人じゃないと思う。やっぱりイジメられてるのかも、アタシ」
スイーツのくだらない偽装がバレて、信用を失って、評価を下げてしまったのだろうか——有華は深刻にとらまえる。
「そういうウチが、NICT出禁やから始末が悪いわ」GEEは自ら嘲った。「人の心配してる場合ちゃうよな。せや……例の、新庁舎に出入りしたろか?」
「初台の?」
「席も机もなくてええわ。食堂があったら長居できるやろ? ノマドワーカーちゅうやっちゃ……メシ美味いんやろか?」
「私も、ずっと食堂でいいや」
「……」
「どうせ……席も机もないと思うから。へへへ」
GEEをセーフハウスの近くまで送り届け、それから有華は一人、とある外車ディーラーへと足を運んだ。店主の瀬戸はレースが趣味で筑波の顔。彼にロータスのクラッチディスクを——新品には交換できそうにないので、手頃なジャンク品を——探してもらっている。だが今のところめぼしい出物はないという。
(あーあ)
ボロ車が修理できれば気分も晴れる筈。そんな期待はあっさり打ち砕かれた。ガソリンを補充する気にもなれず、まっすぐ初台の宿舎まで戻る。駐車場に滑り込んでオンボロ英国車を降りると、有華は後輪に軽くケリをいれた。それからもう一発、重めのケリを入れた。
(なんでアタシ、ここにいるんだ)
部屋に入って照明を点すと、じんわり疎外感が襲って来る。空しさがこみあげる。甲斐原豪ことクラムシェルを追い続けてきた半月あまりの努力、それが結実した最高の夜。緒方も香坂も霞ヶ関にかじり付いている。走り回っている。なのに自分は一人、帰宅組だ。
頑張ったのに。あんなに頑張ったのに——気がつくと、いつも観客席。
(あーあ)
有華はベッドの上にバッグを投げつけた。隅に居座る「ビバンダム」——タイヤメーカー・ミシュランの白くて柔らかいマスコットキャラが、ばふん、と衝撃を受けとめる。それとほぼ同時に携帯電話が鳴った。有華はあわてて、ビバンダムの肉の合間からバッグを掘り出す。
液晶表示で相手が香坂と知るや否や、表情はぱっと晴れやかになった。
「……はは、はい。常代です」
〈香坂です。今いい?〉
「ん……んんっ」声が擦れたので咳払いした。「な、何?」
〈……今日の出来事について聞きたい。なぜ常代有華は、一目散に走っていったのか?〉
「出た」つい、笑顔になる。「また分析すんの?」
〈……甲斐原が車を降りた時、青いPCが車にあると気づいた。そうだよね?〉
「うん。どうしてか、ってことっしょ? んっとねー……待ってよ……っとねぇ……そうだ! バッグの持ち方だ」
〈バッグって例の、ショルダーバッグ?〉
「そ。甲斐原はね、いつもこう、肩から斜めに掛けてる。あの青いPC、けっこう重いんだと思う。だけど今日は右肩に軽くひっかけてた」
〈なるほどね……ちなみに車を降りる前の、甲斐原の様子ってどうだった?〉
「様子? ……延々と電話してたよ。なげーって思った。それもなんか、怪しいって気がしてたんだけど」
〈やっぱりそうか!〉香坂の声のトーンが変わった。合点がいった、という声。
〈ヤツはどこかへ電話してたんだな。君と緒方で認識がズレたのは、そのせいだね〉
「ズレた? ……ってことは」有華は苦笑いした。「隼人は、電話してるとは思ってなかったわけ?」
〈両手でハンドルを握ったまま口を開け閉めしてるドライバーは、歌を歌っているわけでもグチを垂れているわけでもなくて、ハンズフリーフォンで誰かに電話している……車を持たない都会育ちの若者には、それがイメージしづらいんですよ。僕も含めてね〉
「そーなの!? 困った男たちだなぁ」
〈だからゆかりんは白いミニバンが近づいて来た時、すぐに怪しんだ……さっき甲斐原が電話で連絡を取り合っている相手じゃないかと、イメージできた〉
「ああいう駐車場にずっといろ、って言われたらさ。ついチェックしちゃうよね、停まってる車をさ。あのミニバン目立ってた。だって従業員用の駐車場に止めてるくせにベガス製じゃなかったんだぞ? どうみても従業員の車じゃねーな、しかもDQNに人気の車種。性根が悪そーだな……って感じで」
〈なるほど。そのあたりも緒方にはわかりっこなさそうだ。その白いミニバンが駐車場の中でわざわざ移動し、甲斐原の車の傍へ滑り込む。怪しい、危ないかも……ということだね〉