その日の午後。
常代有華はエアコンの冷気とガーゼの感触を左頬に感じていた。視線を廊下に落とすと、看護士や患者たちの長い影が、短冊のように揺らめいている。
右頬には隣に座るGEEの気配が感じられた。でも、いつものような調子のいい会話ができない。ここは病院。自分は怪我人で、GEEは付き添いで。しかも、その自分よりさらに大怪我をした人間がいるのだから、あっけらかんとはしていられない。
GEEが溜息をついた。時計を意識しているのだろう。治療に時間がかかっているのは、具合がよろしくない証拠。
外科のドアががらりと開いた。
包帯で腕を吊った小柄な男が、苦笑いを浮かべている。
「やっちゃった」緒方だ。顔も包帯やガーゼで覆われている。
有華は座ったまま、口を尖らせて言った。「なんで笑ってんのさ」
「古傷なんだよ、左手首……」
GEEが言った。「折れてるんか?」
「ヒビです、ヒビ。まぁ、正確に言うと骨折になるけど」
緒方は有華の左に腰を下ろし、エアコンの風を遮った。「……鍛え方がたりないっす」
「謙遜すな。名誉の負傷やろ」GEEが慰める。
「昔からなんですよ。だよなぁ? 俺、ドジっていうかさ。車のボディとやりあっても、黒帯なら叩き割れって話ですよ。ねぇ?」
自虐的な緒方の口ぶりが有華には辛かった。自分は明らかに——独断専行。暴走して、危険を招いて。
そのピンチを緒方が救ってくれた。というより自分が怪我を負わせてしまった。
目尻に涙が浮かび、垂れた滴がガーゼに吸われる。「……」
「お前が泣くなよ。痛いの俺なんだから」緒方は優しい。
「……さっき、垂水はんに叱られよったんや」右からGEEの細くて大きな手が伸びてきて、有華の髪をくしゃ、と撫でた。「独法(独立行政法人)の職員に怪我されても、総務省は責任取れへん言うてな」
「……」
「そ……りゃそうでしょうけど……結構厳しい言い方だな、それ」緒方は、左から肘でこづいてくる。「お手柄じゃんなぁ?」
「せや、お手柄。でもミソつけたな……ウチかて口は達者やけど、立ち回りとなったら一対一は避ける。追い詰める時は、特にな」
それからGEEは「戦場におけるハッカーの脆弱さ」について語り始めた。現代の戦闘には必須の戦力であるコンピューター、そしてそれを扱うエンジニア——つまりハッカー。しかし、いざリアルな銃撃戦や格闘になってしまえば、電子機器を抱えるエンジニアは逃げ足が遅く、足手まといになる。そんなハッカーと機材を守るべく、サイバー戦争のフォーメーションにおいては「論理兵(=ハッカー)」の世話係たる「物理兵(=ソルジャー)」が存在する。二人がコンビで行動するのが基本、常識であるという。
こういう話題になると女ハッカーの表情は精悍そのものだ。
「ウチにとってはタマラが物理兵……」GEEが言った。「ゆかりんは緒方と二人、せぇので行動するべきやった」
「でも俺、ボディガードのキャラじゃなかったもんな」緒方がうそぶく。
「何を謙遜しとんねん、空手黒帯のくせに」
「いやぁ、高校まではただのガリ勉眼鏡っス。跳んだり跳ねたりは常代有華の専売特許で、緒方少年はそれをカメラで撮る係。しかも安全なところから、望遠レンズで……なぁ?」
緒方は楽しげに語る。包帯の痛々しさを誤魔化そうとする。
「……………………そうだったね」有華はつられて口を開いた。
「俺はスポーツ系カメラ小僧。で……へへ、こいつは」緒方の作る笑顔は絆創膏のせいでやや引きつっている。「筑波のアイドルレーサー。紅一点。すごかったよな、十六歳のデビュー戦。周りは大人、しかもおっさんばっかでさ。もう有華にカメラが殺到して」
「レースクイーンかよ! って……」二人、声が揃ってしまった。
それが可笑しくて——。
「言ってた言ってた。あれが、私の人生の頂点だね」有華の口角が自然に持ち上がった。
「そうか。十六から四輪OKか、筑波サーキットは」GEEも口元をほころばせる。「十五まではバイクやってたクチか」
「うん。好きだったよ。でも大きいのに乗れなくて」
「身体……か」
GEEは細身で手足が長い。単車に必要な資質を備えている。一方、有華の体格は平均的な女子並みだ。
「足つきが悪くてさぁ……格好悪いから二輪はすぐあきらめた。でも」
啓(けい)は——
ついその名前を出して、出してしまって、有華は言葉を切った。
かまわないのだ。ここには、自分の過去を——常代啓太の存在を知っている人間しかいない。
「啓はね。どんどん背が高くなった」
空気が張り詰めた。GEEも、緒方も黙っている。
「あいつは二輪でガンガン……悔しかったなぁ。男に産んでくれって思ったよ。双子なのにさ、なんで足の長さ違うんだーって。思うでしょ普通?」
沈黙に——耐えられず。
GEEが、緒方の包帯で吊った左手を叩いた。
「いだっ!?」
「お前が古い話、持ち出すからやろ阿呆っ」