甲斐原の4ドアセダンは問題じゃない。常代有華はむしろ別の車を気にかけていた。従業員駐車場をうろつく、無関係に思えた白のミニバンである。てっきり敷地の外へ出るものだとばかり思っていたら、何故か甲斐原のセダンに近づいて——隣にすべりこんだ。
(おかしい)
感じるのだ。バリバリに、違和感が。だから走り出した。二台めがけて。
でも走るのはマズい。やっぱり歩こう。堂々としよう。いつもと同じじゃダメ。電網庁の職員らしく振る舞う必要がある。だからあわてて装着したHMDのイヤフォンを、ちゃんと耳に押し込む。
香坂の声が鼓膜に届いた。
〈聞こえるか、緒方……マル秘が例のPCを持っていない!〉
やっぱりか。有華は確信した。
二台まであと二〇メートル。
〈バッグが空だ……今からオフィスを出て整備棟へ移動する……空振りかもしれない……もしかしたら、そっちに〉
香坂の狼狽する声が聞こえる。
二台まで一〇メートル。有華は歩くスピードをさらに緩めた。
白いミニバンのドアが開く。男が降りてきたのだ。緑のツナギにキャップ帽、サングラス。顔に見覚えはない。しかし、きっと甲斐原の仲間だ。
男は何食わぬ顔で甲斐原のセダンに近づいて解錠し、助手席を探り——そして。
青いPCを抱え、ひょい、と頭を上げた。そして有華と目があった。
「電網庁です!」有華は腹筋に力を込めて言った。「ええと、で、電網免許保有者の就業実態と、なんだっけ……公認PCの利用が……ま、とにかく! そのPC調べますからそのまま……」
そこまで言って、有華は身体をこわばらせた。
声が。
動物の、うなり声が聞こえる。
ゆっくり視線を動かした。
大きく開いたミニバンの後部席ドアをしっかり見定める。
奥で光っているのは——中学生ほどの体格を持つ大型犬。その大きく開いた口に生える、長くて、鋭い牙。
きっと猟犬だ。
「行けっ!」
ツナギ男の号令とともに、犬は猛然と飛び出してきた。
自分の方へ真っ直ぐ来る。
血の気が引く感覚があった。
避けられると思えない。
逃げられると思えない。
悲鳴も出ない。
(や……られる!)
万事休す——が、次の瞬間。
大型犬は斜め横から、新手による猛烈な一撃を食らった。
「せぇええええええいっ」
気合いを込め、猛然と突進してきた緒方隼人が体当たりを放ち、絡みあったままミニバンのボディに激突した。
どかん。
鉄板が大きく凹むほどの衝撃。そのまま両者はもつれ合い、アスファルトの上に倒れ込んだ。
犬は猛烈な勢いで緒方の服を食いちぎろうとしている。
緒方も負けじと拳をたたき込んでいる。
「ちっ」
ツナギ男は舌打ちしつつ、青いPCを抱いて走り出した。
敷地の外へ持ち去ろうという魂胆か。
「お……おとなしくしろっ」有華が猛然とダッシュして、ツナギの背中に飛びついた。
しがみつく。でも、かなわない。
ずるずるとひきずられていく。
「なんだぁ、このクソアマっ」
ごつん、と衝撃。
男の肘鉄がもろに——顔に入った音。
「ぶっ」
有華は激しい痛みとともに、口から飛び散った血がアスファルトに落ちるのを見た。
へたりこむ。
景色が。
世界がぐらぐらする。意識が朦朧とする。
ノートPCを抱えてツナギ男が逃げる、その後ろ姿が。
ぼやけて見える。
(悔しい)
逃げられる。
(超悔しい!)
そのときだ。
ツナギ男の向こう側に——誰かが仁王立ちしているのが見えた。
金髪の筋肉男である。
「女の顔に肘いれるたぁ、男の風上にもおけねぇな!」
タマラが豪快なキックを放つ。
一発。
ツナギ男がぐらついた。
さらに二発、三発。
立てないほどに痛がっている。やがて。
最後に——何かが宙を舞った。
(わ、ダメ!)
飛んだのは、青くて四角い板状の物。
ダメ。それを、それを壊してはダメ。
有華は血を吐きながら、立ち上がろうとして——また膝をついた。
無理。
立てない。
キャッチなんて無理。
空飛ぶ青いPCが。
PCが。
地面に。
地面に落ちる。落ちてしまう。
(ああ)
意識が保てない。
やがて。
有華は気を失う寸前——地べたに滑り込む、全身黒で決めた、スレンダーなオトコオンナの気配を感じた。
「……っ。とったどぉおおおおお」
間違いない、あの声。最後に吼えたのは、あの性悪女。
八千夜、大義。
ギィさんだ。