第2話(十):江戸川区:臨海町:午前

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 甲斐原の車は従業員駐車場へ。それを追ってきたロータス・エクセルは来客用の駐車場に入り、電網庁が乗り付けたマイクロバスのすぐ傍に腰を落ち着けた。
 緒方はHMDを跳ね上げ、目を細め、甲斐原の動向を凝視した。運転席を動こうとしないのは何故だろう。遅刻だというのにハンドルを握ったまま、口を開け閉めしている。独り言の癖でもあるのだろうか——などと訝しむ。
「最初からキツネ丼に相談すればよかったね」
 有華が運転席でぼそりと呟く。
「いや。ギィさんが囮になって、此処に観光バスを持ち込んで、甲斐原の青いPCをハックしたからこそ目星がついたんだ。やっぱり囮捜査がある程度必要なんだと思う」
「囮捜査……か」
「麻薬取締官みたいなやつね。じゃないと、捜査が行き当たりばったりになる」
 二人はフロントガラスから視線を動かさずに会話を続けた。甲斐原はあいかわらず4ドアセダンの中。
「……そういえば」有華が言った。「日本って囮捜査アウトなんじゃないの?」
「いろいろあってね……ケース・バイ・ケース。たとえば麻薬Gメンは密売人から麻薬を買っても罪に問われない。機会提供型の囮捜査っていうんだけど」
「へー。隼人もラリってOKなの?」
「ブー。麻薬Gメンは厚労省だ。ま、ウチの生安(警視庁生活安全部)も絡むみたいだけど、警察としてどこまでやっていいのか、俺も詳しくは知らない」
「……ね、ギィさんのやったことは囮捜査っていえるのかな……フリーのプログラマがパソコンをハックとか」
「全然ダメ。本来なら不正アクセス禁止法に抵触して、懲役まであるんじゃないか」
「本来なら?」
 緒方は咄嗟にHMDのマイクを握り込んだ。GEEに聞かれると思ったからだ。
「あのな。観光バスの車載コンピューターにスパイウェアを仕込んで、メンテ業者の整備用PCを襲うって……簡単じゃないらしいぞ。公安部にもけっこう腕利きのハッカーがいるんだけど、聞いてみたら、一週間やそこらじゃ絶対準備できないって」
 甲斐原はまだ動かない。
 有華は視線を正面に保ったまま呟いた。「ふぅん……そうなの?」
「なぁ有華。あのギーって人、本当は何者なんだ? お前、全部知ってるって言い切れるか?」
 そのときだ。
「あ……動いた」有華が呟く。
 甲斐原がようやく車を降りた。オフィス棟の方へ歩いて行く。やはり、いつものバッグを肩に担いで。
 緒方が慌ててHMDに怒鳴った。「マル被、降車しました。そっちに向かうぞ、香坂っ」
〈了解〉
「……あれ?」その時だ。有華の黒目がちな瞳が大きく見開かれる。
「どした?」緒方は車外と車内をやぶ睨みした。「何がおかしい?」
 自分の見立てでは、甲斐原豪に特筆すべき事情は見当たらない。いつものブリーフケース、ぼんやりした表情、厚ぼったい唇、半袖のワイシャツにノータイ——ヤモメ男の冴えない出勤姿でしかない。
 緒方はHMDを手際よく操作した。ネットワーク経由で、香坂の、HMD内蔵カメラが捉えた画像を表示できるよう設定する。
 ほどなくして——切り替わった画像の真ん中に、件の甲斐原豪が大写しで収まった。
〈甲斐原さんですね。電網庁です〉
 イヤフォンから歯切れ良い声が聞こえてくる。香坂だ。カメラ画像の中で甲斐原はふてくされている。
「お……やったか」
 緒方がガッツポーズを取りかけた——その時。
 有華は大きな声をあげた。「まずっ!」
 そして——唐突に、強引に。
 緒方からHMDをむしり取ったのである。
「っっ痛ててっ!」
 無理に引っ張られたので緒方は耳が持って行かれるような痛みを感じた「な……何すんだよ! いいとこなのにっ」
「あんたここに居て。私、それっぽくできると思うからっ!」有華はそのHMDを手に、運転席のドアを勢いよく開けた。
「ハァ!? 何する気だ、おい」
 動き出した有華は止まらない。車を降りてドアを閉じるまで二秒足らず。ばたんという音と、緒方の声が重なった。
「おい、馬鹿っ!」
 緒方はフロントガラス越しに有華の姿を目で追った。ぞんざいに結んだ長い黒髪をなびかせ、有華は猛然と走り出していた。走りながらHMDを装着し、イヤフォンを耳に押し込んでいる。
 どんどんスピードを上げていく。流れるような——動きだった。
 

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