第2話(十):江戸川区:臨海町:午前

 
 決戦の朝。
 緒方は助手席でHMD越しにフロントガラスの外を見据え、へその下あたり、いわゆる丹田に気合いを入れた。敵は目前に有り。地味めな4ドアセダンを駆るドライバー、勤務先のベガスカスタマーセンター江戸川第二へ赴く男、ハンドルネーム・クラムシェルこと——甲斐原豪だ。
「出社の時はいつも、あの車?」緒方は首をかしげる。「外車にしては地味……」
 有華がハンドルを片手でさばきながら、呆れ気味に答えた。「アレ国産だぞ。あいかわらず車オンチだなぁ」
「え!? クラムシェルは外車マニアだって、みんな言うから……」
「出勤は必ずベガス製の車。ルールなんでしょ、会社的に」
「なんていう車?」
「む。そんくらい調べろ自分でっ」
「はい、はいィ」
 有華様の苛々は毎度の事だ。いわば通常運転。おまけに朝から渋滞中では機嫌が良くなるはずもない。このオンボロ英国車は残念ながらマニュアルシフト。調子の悪いクラッチで、とろとろ走るのが面倒極まりないということだろう。
 もしくは大捕物の前だから、神経が高ぶっているのかもしれない。
 あるいは——。
「……悪かったよ」緒方は謝った。謝りつつ、ニヤけた笑いを浮かべる。
「何だ。急に謝ったりして」
「香坂にバレて、叱られたのがお気に召さないんだろ? 俺のせいだもんな」
「……そんなこと一っ言も言ってないし」
 有華は顎でフロントガラスを指した。「車の写真を撮って、画像で検索できるから。やってみな」
「はいはい。画像で検索。トライします」
 運転中、有華のHMDは緒方が預かっている。日々指導を受けたおかげもあって、この魔法の眼鏡にもずいぶん慣れた。電網庁職員なみとは言わないまでも、電話にチャット、ネットサーフィンをこなしつつ、透過して見える視界をチェックしながら、人と会話をこなせるまでになった。飯島にレポートすべき中身としても、このHMDはちょうどいい具合なのだ。
「あとさぁ、遅れてるって現地組に伝えた方がいいよ」
 緒方はHMDのマイクに発報(はっぽう)する。警察風に。
「こちらロータス……マル被(=被疑者)、湾岸道路千葉方面にて渋滞に突入。えー現在、新木場駅前……予定より十五分遅れです」

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 広大な敷地——日本で一、二を争う規模の自動車整備工場。その駐車場に二台のマイクロバスが滑り込んだ。まっすぐ来客用エリアへと向かう。
(すごいな……これが大型車両専門の整備工場か……)
 香坂はHMDを少し上げて、座席からの眺めを肉眼で確認した。自分たちの乗るバスなんて、まるで玩具に感じられる。
 ベガスカスタマーセンター江戸川第二に乗り込んだのは、自分を含む電網公安官二班に加え、ワケアリの女ハッカーGEEと、その仲間であるタマラ——総勢十七名である。
「垂水はん、ワシら面が割れてるからここで待機するでぇ」
 GEEは座席の最後列で中腰になり、前方に向かって宣言した。「キツネ丼、それでええか? お前一人で行けるやろ」
 垂水は最前列にいて、前を向いたままだ。HMDのイヤフォンを介して香坂の返答を待っている。
「大丈夫です。構内のレイアウトはだいたい教えてもらったんで」香坂はHMDのマイクに呟いた。「……僕が、まっすぐ甲斐原のデスクと作業場を押さえます」
 そのときだ。緒方から連絡が入った。甲斐原の車が予定より十五分遅れ——つまり、遅刻するという。
「う……」香坂は顔をしかめた。「弱ったな」
「待ちたいだろうけど、無理だよ?」垂水がきっぱりと言う。
 わかっていた。法人の立ち入り検査は表向きこそ抜き打ちだが、対内的には法務省への手続きが必要であり、日時はすでに決まっている。遅刻する社員を待つことはできない。
「予定が書き換えられるはず……ないですもんね」香坂は笑う。
「うん。それじゃ申請の意味、ないからね」垂水はドアに手をかける。「まさか奴(やっこ)さんがそれを知っていて、出社を遅らせているとは思えないけど?」
「この申請手続きには問題ありますね」
「同感だよ。本施行までには変えたい」
「……」
「………………悪いけど、始めるぞ」
 垂水が手を挙げる。マイクロバスの中央ドアが開いて、スーツにHMDがトレードマークの一団——電網公安官たちが、ぞろぞろと降りていく。
「……こちら香坂。こっちはもう始まるよ……すまん、時間厳守なんだ」香坂は緒方に向かって言った。「甲斐原はそれと知らずにオフィスへ入ってくるだろう。そこを押さえる。到着したら教えてくれ」
 それから、自分もバスを降りた。

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