くそっ。
緒方はやぶれかぶれの策を一つ編み出した。「……か」
「か?」
「借りじゃ、だめか」
「かり?」香坂が目を丸くする。
「借りはかならず返す。だから、貸してくれ」
呆れた面持ちで、香坂は嘆息した。
「いろいろ……ややこしい御仁だね。僕が何を貸せますか」
「有華に……常代さんに口止めされていることがある。それは言えない。許してくれ。その上で、無理を承知で教えて欲しい。どうしてキツネは……香坂は電網庁に入った。どうして岩戸紗英についていく。教えてくれ」
「何故それが知りたい?」
緒方は今日の出来事を振り返った。GEEなる女ハッカーの掴んだ重大情報。それを召し抱える岩戸紗英なる魔女。その魔女が率いる電網庁。その一切を、警察は不信に感じているという事情について——思いをめぐらせた。
そして結論する。何故知りたいか説明はできない。説明を始めてしまえば、事件のあらましを喋ってしまう。
「……頼む。聞かないでくれ。いずれ話せる」苦汁の決断であった。
「貸しは高いぞ。いいのか?」
「礼儀は尊ぶ。礼に始まり……礼に終わるのが武道だ」
「ふむ。じゃあ空手黒帯に免じて、一つ目の質問に答えよう」
香坂は右肩に提げていた重そうなビジネスバッグを、左肩へとかけ直した。「……僕が電網庁を目指した理由。それは単純な話だ。メディアの論調に嫌気が差したからです」
「……嫌気?」
「電網免許ネットワークを基礎におく電網庁のコンセプトは、国民を規制するばかりじゃない。メリットも提供する。パスワードの管理が不要、とか諸々ね。僕は大学で研究していた立場だから、声を大にしてそう言いたかった。と同時に、電網庁がそのメリットを実現するには相当な労力が伴う……時間がかかることも知っていた。僕の力が役に立つはずだ。ずいぶん考えたけれど、その志に従って前の会社を辞めた」
「……志」
緒方は不意打ちを食らっていた。そこへ香坂はこう畳みかける。
「二つ目の質問。どうして岩戸紗英についていくのか。僕は面接のとき、彼女から『泥だらけになるよ、綺麗な仕事じゃないよ』と脅された。で、覚悟はありますと答えた。それが当面、答えだと思う」
「?」
「実は……実家が呉服屋でね。僕自身、お洒落は大好きだ。で、着物ってやつは着る時こそ美しいけど、染める側はドロドロになって作る。爪の隙間が青くなったり、気持ち悪いもんなんだ。そんな職人の努力の上に、美しさが成り立ってる」
「……」
「そういう世界が好きなんです。憧れがある」
「あこが……れ」
「岩戸紗英って存在は、一見華やかそうに見えるでしょ。けれど、それだけの人なら僕はつまらないと思う。あの人は汗を流すのが好きなんだ。実は泥臭い。泥臭く戦ってる……けれどそれを人にアピールしない。表向きは、あくまでエレガントに振る舞う。そういうの好みなんです、端的にいえば」
「……」
「答えになっているかな。僕は貸しを作った?」
「……」
「何とか言ってくれよ」
「……すまん」
「は?」
緒方は顔をまっ赤にして、頭を下げた。「聞いた俺が、馬鹿だった」
そして頭をあげ、目を閉じて——言った。
「許せ」
くるりと背を向ける。そのまま歩き出す。
「おい、待てよ」
香坂の声は耳に届いていた。けれど目が見られない。振り返りたくない。肩が。肩が震えているのがわかる。自分が愚かに思えた。恥ずかしい。恥ずかしさで胸が一杯になる。こんな立ち去り方をすれば、また香坂は機嫌を悪くするだろう。でも、その顔が見られない。それほどに恥を知った。
(俺は馬鹿だ)
たぶん香坂は自分が答えてほしいことを言ってくれる。そうに違いない。そんな風に心の何処かで期待していた。
たとえば「電網庁のポリシーは社会正義だ」。
あるいは「岩戸紗英は尊敬すべき立派な女だ」。
そんな安っぽい、ありがちな台詞が聞けると信じていた。ところが——香坂の答えはまるで違った。だから。だから自分の浅ましい期待に気づかされた。 情けない。情けなくて。
いてもたっても、いられなかった。