深夜——日付変更線を超えた頃。
「何? まさか……待ち伏せ?」そう言って香坂一希は足を止め、目を丸くした。
「うん、まぁ」
緒方隼人はバツが悪いと感じている。新宿の外れ、初台駅の真上にそびえたつ電網庁の新庁舎。ビルの表側は地下鉄と行き来する人々が集う庭となっていて、店舗も多く人通りが絶えない。しかし夜が更けると庁舎の出入は裏口に限られる。深夜業をやっつけて公務員宿舎へ帰る一年目の新人官僚は、ビルの裏側から現れ、薄暗がりの駐車場を脱け、路地へと消えていく筈だ。香坂一希は必ずここを通る——そんなルートに見当をつけて、緒方はここに構えた。これが待ち伏せでなくて何なのか。言い訳しようがない。
「気持ち悪いって」香坂は怪訝そうに言った。「僕の電話番号ぐらい、公安なら調べられるだろ」
緒方は電話しようなどとまるで思わなかった。会って話がしてみたかったのだ。だから一言——悪い、とだけ告げた。
「で……何」
香坂の物言いは雑だった。面倒くさい、と顔に出ている。疲れているから手短にしてくれ、ということだろう。
「一つ、教えてくれないか」
緒方はポケットに入れていた手を出し、仁王立ちになって尋ねた。「……香坂一希は会社を辞めてまでして、公務員試験を受験した。しかも電網一種を突破した上で、総務省に入省。希望どおり電網庁への入庁を果たした……そうだろ」
「そうだけど」
「でも世間じゃ、インターネット接続法は世紀の悪法で、それを司る電網庁は国民を監視する恐怖の組織で、やがて検閲を始めるだろうって論調だ。かなり前から」
「……確かに。僕が公務員試験を受ける前、インターネット接続法がまだネット新法って呼ばれてた頃から、電網庁への風当たりは強かった」
最近ではネット禁止法とまで言われてるけれど——そう付け加えて、香坂は苦虫を潰す。
「なのに、どうして……」緒方は切り込んだ。「電網庁入りを志望した?」
香坂は黙っている。だから畳みかけた。
「入ってみた感想は? 岩戸紗英って信じるに足る女なのか?」
「その質問には即答できないな。というか、したくない」
一回り背の高い伊達男が、自分を見下ろし、棘のある言い方で答える。緒方は薄々察していた。気に入られていないに違いない、と。
あろうことか香坂はこう続けたのである。
「…………平日も休日も関係なく、緒方隼人と常代有華は車でどこかへ出かける。何をしてるのか聞いても、僕は教えてもらえない。なのに僕だけが質問に答える義務はあるのか?」
「え……え?」緒方は面くらった。「おいおい、そりゃあさすがに誤解だ。有華は……」
しかし、そこで言葉を呑み込む。口止めされているからだ。
——キツネ丼には内緒ね。あいつは今、大事な時期だから。
バス事件の真犯人を突き止める。この一件に香坂を巻き込んではならない。あの約束を守ろうとすれば、有華と自分がなぜ最近行動を供にしているのか、説明が難しい。だから別の、適当な言い訳を考えなければならない。
「ええっと……有華と俺は……あのぅ」
それがよくなかった。余計に香坂の感情を逆撫でしたのだ。
「有華、か。また呼び捨てだ」
「いや…………ちょっと」
「はっきり言うよ。気に入らないんです、お前さんが」香坂はワイシャツのネクタイを緩めた。「有華が有華が……って、幼なじみで熱血漢風な顔して。その癖、実は公安警察だ。うちの岩戸女史を見張っている。つまりは食わせ狸じゃないか……よくそんな仕事ができるな。ま、ある意味感心するけどね。意味わかる?」
「…………」何も言い返せない。
香坂は容赦無く攻め込んでくる。「幼なじみという間柄を仕事に利用するなんて、気持ち悪くないの? 東大生にはプライドってないんですか? 組織に尽くすことだけが、人生か?」
組織に尽くすことだけが人生か。
その響きに、雷に打たれたような衝撃を覚えた。
どれぐらい経っただろう。一分、二分——三分は過ぎたかもしれない。緒方隼人は延々と、まるで廊下に立たされる小学生のように、無言で歯を食いしばっていた。書類の束でずっしりと重いバッグを握る右手が、痺れている。
「……ね」根負けしたのは香坂の方だった。「あのさ。黙ってるだけなら……得意な空手で殴りかかってくるとかしないなら、もう行っていいかな? 明日も早いし、お互い疲れてるんだし」
何も言い返せない。そんな状況の中、緒方は必死に考えていた。言い訳を、ではない。有華との約束を守りながら、香坂に何をどう伝えるべきか。それを必死に。
渾身の力で脳をフル回転させていたのだ。
顔は真っ赤だったと思う。自分でも血がのぼっているのがわかる。
「……悪かったよ」香坂は面倒くさそうに言った。「言い過ぎました。僕は腕力で勝負できないから、口でやり込めちゃうんだ。返答できないところへ、理詰めで追い詰めた。詫びるよ。詫びます」
そうじゃない。香坂は悪くない。俺が何も説明していないからだ。悪いのはこっちだ。