調子の悪いロータス・エクセルを騙し騙し転がすのは楽しくない。
クラムシェルこと甲斐原豪の行動範囲にあししげく通うようになった有華は、もっと早くにクラッチの修理を終えておくべきだったと後悔していた。国分寺で仕事を終えてから車に乗って霞ヶ関に立ち寄り、その足で新小岩まで来て、夜遅くに初台の宿舎まで帰宅。この繰り返しはなかなかに辛い。
(ごめんね、ロータス)
有華は左の路肩に車を停めて、対向車線の向こう側に建つ整備工場に視線を投げた。ベガスの子会社とは違って、かなり規模の小さな町工場である。
たった今、甲斐原の車が吸い込まれてシャッターが降りた。
〈あんまり近づいたらあかんで。顔は絶対見られないこと。できれば車も〉
耳元でGEEの声が響く。
「わかってますって」
〈ゆかりんは慌てん坊やからなぁ〉
「そんなに心配なら来てくれりゃいいのに」
〈……涸れた小太りのおっさんと絶賛お茶中。電話変わったろか?〉
「四本木さんでしょ。いいよ。楽しくやってください」
〈まぁまぁ楽しいで。蛙に似てるって言うたら、機嫌悪くなって大変やねん〉
「はぁ。あいかわらずだね……人を怒らせる天才」
〈クラムシェルは?〉
「なんかね、ちっちゃい整備工場みたいなところに入っていった。島﨑カーファクトリー、だって……アジトなんじゃないの? 二階に電気が点いてる。何やってんだろね」
〈……遅くなる前に帰りや〉
「はぁい」
連日連夜の探偵ごっこで疲れがたまっている。有華はほっぺたを叩き、眠気を吹き飛ばそうとHMD(ヘッドマウントディスプレイ)を装着した。{キーワード:修学旅行バス}を音声で入力。宙返りを繰り返す忍者アバターと一緒に、ニュース記事を眺める。
ヘリコプターの空撮写真――高速道路の料金所にバスが突っ込んだ有様は、何度見ても生々しく恐ろしい。しかもインターチェンジではなく、大きなハイウェイ二つを接続する巨大な料金所に、である。幹線道路が完全に麻痺してしまう。
「……こんなとこでやらかしちゃってさ……何……和解? ……ふーん。ベガスと遺族が和解するんだ……」
車工場の中に車があることは当たり前だ。しかし、ここには珍しい設備がある。
片隅に鎮座するベガス社製の4ドアセダン車に歩み寄ると、甲斐原豪は手を上げて声をかけた。
「どうよ」その声は車のエンジンが奏でる爆音にかき消される。
ベガス・テクセッタHVのボディはその場を動かない。だがフロントタイヤは猛然と回転していた。エンジンパワーを計測するシャーシ・ダイナモの上に載せられれば、いくらアクセルを吹かし、いくら車輪を回しても車体は静止する。まるでモルモットが回し車の上を走るように。
運転席には人が乗っていなかった。
車を自由自在に操る術――コンピューター・プログラムの罠を試してみるには、シャーシ・ダイナモの上でなければならない。ドライバーの意図に反して速度が落ちなくなり、しかもブレーキが効かなくなるという残酷な仕掛けをテストしようと思うなら。
エンジンルームと助手席からは長いケーブルが伸び、奥の小部屋まで引き込まれている。中にいたツナギ姿の島﨑拓生がパソコンを弾くと、途端にテクセッタは沈黙した。
「完璧ッスよ、師匠」小部屋から出てきた島﨑が胸を張った。「もう俺、ベガスに雇ってほしいぐらいっすわ」
「例のネタは?」
「精度高いです……ビビりますよ。pack8back8、恐るべし」
甲斐原は舌を巻いた。トラックやバスと違って4ドアセダンは自分の専門外だ。その点、あのpack8back8はとんでもない情報を引っ張ってくる。仲間で良かったと思う。
シャーシ・ダイナモを備えている島﨑カーファクトリーの二代目、この島﨑拓生も負けず劣らず役に立ってくれる。根っからのオタクで、コンピューターチューン業界では甲斐原の子飼いも同然。ベガス系列の真面目なサラリーマンたちと違い、渡世に揉まれたスレっ枯らしだ。馬力アップや修理だけでは食えない、時には車を壊すほうが金になる事もある、金は幾らあっても困らない――そういう会話がスムースにできる。
「成功間違いなしッスよ」島﨑は軽口を叩く。
だが油断は禁物だ。甲斐原は島﨑のかぶるキャップ帽をひっぺがした。
「その仕掛け……何分でできる」
「え……そうッスね。ナビ周りがちょっとかかるから……ま、十五分みとけば」
「五分でできるようになっとけ」
「……簡単に言いますねぇ」
「十五分なら百万。五分なら一千万だ」そう言って、キャップ帽をかぶせてやる。
「やりますやります、はい」
誤植かも報告:「その上、警察まで引きつけれてくるのだ。」?
だと思います!直します〜 (いつもお世話になりますw )
ご指摘あった誤植を直しました。
誤)警察まで引きつけれて
正)警察まで引き連れて