ベガス社と遺族が金銭で和解——そのニュースがテレビやネットを騒がせ始めたのは、夜の六時を過ぎた頃であった。社内では誰もが浮き足だつ。パソコンで情報を漁ってしまう。部下たちにネットサーフィンをやめろ、集中しろというのは酷な話だ。まさしく皆、当事者なのである。
おかげで四本木篤之は悩み始めていた。
修学旅行バス事故の顛末で、会社の経営陣はグループ一丸となって賠償に舵を切った。真相が明確になっていないうちに、である。誰の目にも理不尽な結果に映る。まるで「何かやましいことがある」と主張しているようなものだ。自分の周りにいて、オートパイロット研究に従事するほどの賢しい社員達が黙っている筈がない。
無論、四本木とて事の顛末に疎い。部下から質問攻めに遭っても答えられることは何一つない。さらに困ったことがある。半月ほど前、あの岩戸紗英に「共同戦線を張りましょう」ともちかけられた。もちろん思いは同じだ。ベガスの濡れ衣を晴らし、再び電網庁とオートパイロット研究を加速させたい。だからここ最近は社内で発足した調査チームに横槍を入れ、こつこつと情報収集に勤めてきた。
なのに頭上で勝手に白旗が揚がったのである。
(ゲームセット、なのか……!?)
役員たちは俺に何かを隠している。そういう疑念がとぐろを巻く。
四本木は席を立ち、ワイシャツの上に羽織っていた作業着を脱いで椅子にかけた。更衣室に行く手間も惜しい。すぐに出かけたい。会うべき男がいる。だが今日は会社を休んでいる。否——今日も、だ。ここ三日ほど行方がわからない。電話にも出ないから自宅に押しかける他はない。名前を朽舟滋という。
(……もしかしたらあいつが鍵を握っている。いや、握らされている)
朽舟は四十半ばで課長職を勤めるベテラン研究者である。問題の自動ブレーキを始め、自動車のコンピューター制御をライフワークとしている。研究所では長らく四本木の右腕を勤め、オートパイロット技術を育んできたエースだ。しかし昨年起きたトラックのリコール騒ぎに巻き込まれ、再発防止プロジェクトの長として本社に取り立てられてしまった。
それでも四本木は朽舟とのパイプを密に保った。二人といない切り札を失うわけにはいかない。あの実直そうな丸眼鏡を社内のどこかでみかけようものなら、五分でいいからと茶に誘った。お前を手放すつもりなどさらさらない。隙あらば戻って来い、俺に何かできることはないか。そう声をかけ続けた。
今年になって朽舟は研究所へ復帰を果たした。オートパイロット研究は再び加速する。四本木がそう信じた矢先の——バス事故。おかげで朽舟は再び本社へ召し上げられ、以来ここ半月ほど顔を見ていない。
そして今夜。
和解騒ぎの最中、件のエースは本社にも出勤していないというのである。調べてみると「病欠の連絡はあった」らしい。
(病気、ね……)
もともと顔色は優れない奴だ。色白で細身、趣味がプログラミングというインドアな男。世が世だけに自動車メーカーのサラリーマン稼業を営んではいるが、一昔前ならハッカーと呼ぶにふさわしい生き方を選んでいたに違いない。一歩間違えればジョブズか、はたまたウォズニアックか。コンピューター・ギークを地でいく男である。
四本木は慎重を期した。技監という肩書きを持つ自分は、研究所に二台しかない社用車を自由に使える立場にある。社員の住所を運転手に告げて、自宅へ横付けさせることも容易い。しかし敢えて自腹でタクシーに乗った。バス事故の背景には底知れない「闇」が感じられる。だから会社側に悟られず動きたいと思ったのだ。
タクシーの中でノートPCを広げる。実は三日ほど前、謎めいた電子メールを一通受信した。
{
差出人:Shigeru Kuchifune
件名:四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています
自己責任です。
That bUiSiNeSShOTeL is awfully bad
because I was LoCkEDouT and that hotel’s fROnt forgot MOrniNgcaLL.
}
朽舟とは長い付き合いになるが、こんな経験は一度もない。何かの暗号か? 俺に伝えたいことでもあるのか? そう何度もメールで問い但したが当人からの応答はない。それがとてつもなく怖い。隠された意味を想像する。自分に助けを求めているのだろうか。本音としては、ただの悪戯であってほしいと四本木は切に思う。
やがてタクシーは建て売り住宅の一角でスピードを落とした。カーナビが「目的地の周辺です」と告げている。
雨が降り始めていた。四本木は車を降りると、折りたたみ傘を開きつつ、久方ぶりに会うだろう部下の家族に思いを馳せた。結婚式に出席した記憶。朽舟の妻は同じベガスの元社員であり、数少ない女性エンジニアだった。旧姓・三山——幸代(さちよ)。当時、四本木は朽舟ではなく三山の上司であった。新婦側としてスピーチを頼まれたのだ。そうだ。俺はスピーチをした。
(ええと、何だっけ……)
しかし自分がどんなスピーチをしたか思い出せない。
(大事なことを忘れちまうなぁ、最近……)
三軒並んだうちの一軒に近づいて足を止める。表札に朽舟とあるから間違いない。照明は灯っていなかった。チャイムを押しても返答がない。カーテンは閉め切られていた。人の気配はしない。留守だろうか。
雨足が強まってきた。生ぬるい横風も感じる。四本木は数歩下がって二階のバルコニーをにらんだ。傘を煽るから雨露が目の中に入ってしまう。だが我慢して目を凝らした。物干し竿が丸裸で水浸しになっている。やっぱり、いないようだ。
(さて、どうするか)
近隣の住民を訪ね、どこへ出掛けたのか心当たりを尋ねてみようかとも考える。しかし踏みとどまった。先に車屋の性分が鎌首をもたげ、目前のガレージを品定めしたくなったのだ。車が一台だけ停まっている。雨ざらしかというと、そうでもない。ポリカーボネート製の片持ちカーポートで覆われている。でも、この手の屋根では雨が横降りだと避けきれない。四本木は頭をかしげた。スペースはかなり広い。なのに車は端に寄せられていて、だからボンネットにまで雨が降りかかっている。もっと内側へ寄せておきゃあ、濡れなくてすむのに——。そこまで考えた結果。
(そう……だった)
思い出した。結婚式のスピーチの中身を。
——夫婦揃って車好きだから、ドライブには困るでしょう。どっちがどっちの車ででかけるか。そんな事で揉めるなよ、サッちゃん。旦那の車に乗り、旦那に運転させなさい。もちろん下手なら文句はつけてよろしい。
そんな事を言った記憶がある。
(そうだ。この家にはきっと車が二台ある。けれど今は……一台しかない)