第2話(四)

 香坂はペットボトルのお茶を口に含み、残った量を眺めた。昨日より減り具合が遅い。
「……ふぅ、エアコンが効いてくれるのは、助かりますね」
 今夜は蒸し暑さを感じない。それが嬉しい。
 先輩が言った。「ゴメン。今日は終電車があるうちに帰りたいんだ……あと、頼めるかな」
「あ、どうぞどうぞ。僕、歩いて5分ですから」
 香坂は新婚の上司を気前よく見送ると、背もたれに体重をあずけた。スマホを手に取る。夜の十一時を回っている。
 新宿からやや西へ歩いた初台エリアにそびえ立つ、真新しいオフィスビル。電網庁の新庁舎。その最深部にて居残りを続けるのは、香坂ただ一人になった。
(涼しいってだけで、こうも能率って上がるものなんだな)
 少しずつ工事が進んでいる。環境が整いつつあるという実感が湧く。だが、いまだにほとんどのオフィスは消灯されたまま。明るいのは自分たちがいるサーバールームだけだ。スチールラックは錆びひとつなく、はがしたビニールや取り扱い説明書がところ狭しと床に散乱している。
 霞ヶ関にある総務省や九段下にある関東総合通信局など、散り散りになって仕事を続けている電網庁のメンバーがここ初台へ集結するのは二週間後の予定。但し、電網免許証を用いた入退館のセキュリティシステムはその前に稼働を始めるべきだ。そのために必要最小限のメンバーが前倒しで新庁舎に入り浸り、連日連夜作業を続けている。しかも他の業務と併行して。
 香坂もその面子に加わっている。朝は霞ヶ関、昼からは都条例の取締りで法人を行脚し、一旦霞ヶ関に戻った後、夜は初台へ。その繰り返し。
(さて、もうひと頑張りしようかな)
 有華から届いた飲み会のお誘いメールには気づいていた。場所もゴールデン街で、さほど遠くない。でも残念ながら手が離せない。二週間後という締め切りもあるし、自分が専門家であてにされているという事情は重い。
 香坂はメールに添付されていた店の地図をじっとにらんで、溜息をついた。
 そこへ。
「毎晩悪いな、残業」
 とびきり大柄な男がふらり、と現れた。開発局局次長――垂水昂市である。「金曜日だしな。女の子からお誘い、あったんじゃないのか? 言ってくれよ」
「え!?」
「……なんだ。図星だったか」
「いいんです」香坂は笑って誤魔化した。「人使いが荒いことは噂に聞いてましたから」
「ブラック企業っていいたいんだろう。言っておくけど、総務省に限った話じゃないぞ」
「組織に、尽くせるか……」香坂は謎の電子メールを引用した。「ここは試練です」
 差出人についてはまだ不明のまま。忘れた日は一日もない。
「……ま、そう言うな。今日は終わりにしよう。な?」
「エアコンのおかげで、それなりにはかどったし……局次長がそうおっしゃるなら」
「よし……ということ、で」
 ぱん、ぱん。
 垂水が、まるで給仕を呼びつけるように手を叩き鳴らした。すると。
 サーバールームの入口で女二人の声が響いた。
「はーい! 残業代でぇええええす」通称ナナさん。アラフォー。長い黒髪と理知的な眼鏡のスレンダー。
「おっぱい四つ、ただいま到着しましたぁあ」通称ゆりっしー。アラサー。ショートボブでダイナマイトボディ。
 セクハラ容認を信条とする美人出入り業者二人組が、進軍ラッパのごとくがらがらと音をたて、台車を押して突撃してきた。缶ビールやピザを山盛り載せている。
「わわっ!?」香坂は面食らった。
 垂水がすかさず耳打ちしてくる。「すまん。常代君は別件でこれないと」
「どうして謝るんですか」
「……いや、なんとなく」
 

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