第0話(一):新宿区〜千代田区::早朝〜午前

 夜を夜と正しく受けとめて真っ当な朝を迎える。
 香坂一希(こうさかかずき)がその幸運を噛みしめたのは、目が覚めてから随分経ってからのことだ。高速バスが減速した気配で目覚めた当初は、感謝する由もなく、むしろ余り眠れなかったぞと運転の粗さに悪態をついた。同夜、別の高速バスで、多くの命が奪われた事など想像だにしなかった。
 カーテンの隙間が少し明るい。朝の五時から六時の間と見当をつけ、香坂は勘の鋭さを確かめようと携帯電話を取りだした。ところが液晶画面には見慣れないメッセージが映し出されている。時刻よりも目を惹くそれは、乾いた調子で旅の終わりを告げていた。
〈この携帯電話は電網免許証に未対応です。インターネットを利用しないでください。条例違反となります〉
 まさしく東京都に着いたという証しだ。
 カーテンを開けて位置を確かめる。高速道路上では、東名と首都高を分断するこの料金所が境界線らしい。まどろみながら携帯電話をいじるうちに、母親から三度も電話された履歴が示された。非常事態らしいが——他の客がいる手前、降りてから電話しようと香坂は決める。
 やがて照明が灯り、乗客の起床をうながす運転手のアナウンスが流れた。予定より十分以上早く〈池尻大橋〉に到着すると告げている。〈新宿駅東口〉はその次。
 一つ目のバス停を過ぎて香坂が支度を整えた頃、二列隣りに乗り合わせた女性客が何か口にし始めた。周囲に聞こえるほどの声で。
「マジ……どうしようもないって……えー」
 二十歳前後の学生らしき佇まい。スマートフォンをじっと見つめ、いじりながら、小声でぶつぶつと呟く。挙動に不安がみてとれる。そのとき。
「おほん! おお、おほん」誰かが聞こえるように咳払いした。朝からうるせぇぞ、という意思表示だ。
 結果、彼女は声を出さなくなった。けれど香坂の視線に気づいたらしく、こちらに振り向き、やばいっスよこれ、やばいっスよと唇だけを動している。助けを求めているのだろうか。表情は悲壮そのもので両の眉と目頭が強く寄せられていた。そういえばサービスエリアでのトイレ休憩で乗り降りしているときから、彼女の顔は何かに似ているけれど、何だろうかと香坂は夜通し考え続けてきた。そして遂に脳裏が一閃する。
 般若。般若だ。般若のお面にそっくり。
 香坂は無言で般若と対峙していた。目がずっと合っている。何がやばいのかまるで見当はつかない。けれど凄い形相だから反応しないのも気まずい。
 香坂はあえて声を出さずに口だけを動かして返答した。
「(失礼ですが、何かに似てるって言われませんか)」
 彼女はうんうん、と激しく縦に首を振った。たぶん通じていない。
 やがてバスが停車する間際になり、彼女はボストンバッグを抱えて席を立った。香坂と同じ〈新宿駅東口〉で降車する構えだ。
 ところが——降車は許されなかった。般若の不安は的中していた。
「駄目ですよ」
 乗降口の外に降り立った運転手は、ドアのステップに佇む女性客に対し、開口一番叱責した。「そういう決まりですから」
「だって、仕方なくないですかっ」
 般若女はむくれている。「ケータイが調子悪いんだもん」
 どうやら電子チケットが表示できなくなってしまったらしい。乗り降りに紙の切符ではなく電子チケットが運用され始めて間もないが、長距離の高速バスでは電車と同じで降車駅ごとに料金が異なるから、乗車時だけでなく降車時にもスマホでのチケット表示が求められる。表示できなければ無賃乗車。短い距離の料金を払って遠くまで乗ることが許されるはずはない。
「チケットが表示できない時は、この路線での最長料金を払っていただく決まりです」運転手は厳しく言った。「現金、お持ちじゃないですか」
「酷っ」女はドアのステップにしゃがみこむ。「お金ないから高速バスなのにっ」
 香坂はその背後に立ってやりとりを聞きながら、助け船を出そうと決めた。
「あのう、ちょっといいですか」
 運転手と若い女、双方が困惑した顔でこちらを見る。
「僕、総務省の職員なんですけど、そのスマホ見せてもらっていいですか。解決できるかもしれないんで」
「時間、あまりないですよ」運転手が冷ややかに言った。さっさと払ってくれ、という面持ちだ。
「三分もあれば」
 香坂は不具合の原因におおよその見当をつけていた。深夜の休憩時間、サービスエリアで一同が乗り降りした時、彼女がディープにスマホをいじっていたのを見た記憶がある。
 見知った機種ならば、やりようはあった。
 香坂はバスのステップに腰掛けると、ショルダーバッグからノートPCを取り出し、女のスマホとケーブルで手際よく接続する。
 やっぱりだ。「乗っ取られてますね」
 女が言った。「なんですか、それ」
「途中、サービスエリアで不審な電波が飛んでいたんです。無料の無線LANスポットがあったでしょ? あれ、下手につなぐと逆にスマホが乗っ取られちゃうやつ」
「あ」女は心当たりがあるという顔をした。「嘘……そんなに怖いものなんです、か」
 案の定である。通信費の捻出に苦労している学生、無料という言葉に惑わされる庶民。お金をセーブしようとするから騙されやすい。リテラシーが低くて、だからこそ怖い物知らずで、ありがちな罠と相性がいい。
「タダほど高いものはないって、言いますよね?」香坂は淡々とキーを打つ。
 駆除ツールを持ち合わせていたおかげで、作業には一分もかからなかった。
「はい。アプリ、起動してみてください」
 こうして女性客は電子チケットの表示に成功して無罪放免となり、香坂と二人で発車するバスの後ろ姿を見送った。事なきを得た彼女は感心することしきりである。無料の無線LANスポットには気をつけます、と言う。表情もやわらかい。
 しかし香坂は決まり文句を告げた。「この機種は東京だと条例違反になるから、買い換えてください。その方が安全なんです」
 すると若い女は溜息をつき、眉を寄せ、再び般若面を披露した。条例、という単語に反応したのだろう。世論はアンチで大合唱中だから無理もない。

——ネット新法は世紀の悪法! そのモデルケースとして全国に先駆け条例施行に踏み切った東京都知事は悪魔!
 
 だから「あなたは私を助けてくれたナイスガイ、だけど都条例の味方ならやっぱり敵認定」といわんばかりの般若面にもうなずける。
 しかし言わねばならない。相手が般若面だろうとおかめ面だろうと。
 香坂は自らを奮い立たせた。
「検定合格品なら、こういうトラブルは発生しません。妙な無線スポットにつなぐことができない。代わりに国有の無線スポットへ自動で接続します。あ……僕、電網庁の職員なんです。新条例、世間ではとやかく言われてますけど……あなたのような人を守るためにあるんですよ。わかってください」
 まだ罰則はありませんし、国から補助金も出ますし——などとごたくを並べ、やがて一人の若き公僕は、さっそうと踵を返した。
 ちなみに香坂一希はハッカーである——公僕である前に。

“第0話(一):新宿区〜千代田区::早朝〜午前” への3件のフィードバック

  1. 読者様からのご指摘により、誤字を修正しました。
    (誤)アキバへの感心 → (正)アキバへの関心

  2. 「(子供に)ゲームをやらせるのにも(大人の)監督が必要な世界って随分窮屈」という読者のご指摘がありました。

    確かにそれじゃ窮屈。しかし、本作のこのエピソードについては若干ニュアンスが違うので、加筆しました。

    (加筆前)つまり四種免許で認証したネット環境を五種免許しか持たない小学生に与え、好き勝手させている。
    (加筆後)子供が一人でゲームに興じることに問題はない。問題があるのは、それが「ネットに接続可能な機器」であり、「認証したのが大人」であるということだ。子供の利用を想定したポータブルゲーム機などは五種免許での利用に対応しているが、一般のPCは対応しないものがほとんど。成人女性で認証したPCという比較的自由度の高いネット環境を、そのまま小学生に与え好き勝手させる。この状態ではワンクリックで——母親名義で——買い物もできるし、成人向けのサイトへの進入も可能となってしまう。

  3. 香坂君自身の独白による「自己紹介=前口上」を大幅加筆しました。公務員でありながらハッカーという矛盾、そして天敵たる「母〇」との長電話。そのあたりを名調子で語ってくれます。

    (以下、加筆部分)
     公務員ほどハッカーと矛盾をきたす職業も珍しい。公務員はオープンかつ潔白でなければならず、一方のハッカーは閉鎖的でモニョモニョゴソゴソと怪しいのが常である。「ハッカーを犯罪者のような目で見るのは大きな間違いで、悪意のあるハッカーのことはクラッカー、あるいはブラックハットと呼びましょう」などと主張する輩もいる。「現代の子供はハッカー的な資質を磨くべき」などと推奨する風潮もある。しかしいずれもハッカーの本質たる〈反社会性〉に蓋をしている、と香坂は感じる。ハッカーは犯罪者でないにしろ、およそ社会的な存在とは言いがたい。
     たとえばプログラマ(おおむねハッカーとはプログラマだ)業界には「くだらないと思う仕事には一切手をだすな」という格言がある。まったくもってその通りと香坂は納得する反面、これを公務員にあてはめれば国家は明日にも転覆するに違いないと思う。また「ハッカーの能率を上げたいなら、他の社員がいない時間に出勤させるか、自宅でやれと命じるべきだ」という名言もある。これを公務員に当てはめると、昼の間ずっと市町村役場のシャッターが降りることになる。というわけで、ハッカーは協調性を犠牲にしてのみ成立する存在だ。いや、ハッカーはハッカーとはつるみたがるから、一般人との協調について絶望的というべきか。いずれにせよ公務員とハッカーは、まことに、途方もなく相容れないのである。
     翻って、公務員の道を選んだ自分はどうなのか? こと「電網庁」に限ってのみ、ハッカーであり続けることが可能だと香坂は結論している。民間企業を束ねて発足した画期的な組織。開発局という部署を持ち、大量のエンジニアを雇用している。きっと有能なハッカーがごろごろいる——筈だ。明日の初登庁が心底待ち遠しい。
     ところでハッカーにはいろんな敵がいる。協調性を強制してくる連中、なかでも「母親」という生物はかなりの難敵だ。詮索好き。常識を振り回す。自宅から通う学生ハッカーの分際では、食事のバランスからガールフレンドのチョイスまで微に入り細に入り意見され、連戦連敗を余儀なくされた。社会人になり独立してからも、電話や電子メールを駆使して情報戦を挑んでくる。もちろん恩義も愛情も感じるわけで、それがなおさら難敵を難敵たらしめている。
     というわけで、母親との長電話はハッカーにとって丁々発止の勝負事。暇と体力がたっぷりあるときに限り、香坂は電話するよう心がけている。

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