第2話(三):千代田区〜新宿区::午後〜夜

 岩戸紗英は警察庁のゲートを抜け、広々とした踊り場で足を止めた。遅めのランチを摂ると決めて、総務省のある十一階へ戻らず、一階を目指すことにする。
 中央合同庁舎第二号館の広々とした吹き抜けには、二階の警察庁と一階のロビーを結ぶためだけのエスカレーターが驕られている。下りに乗った岩戸は、上り側からやってきた風変わりな男に声をかけられた。ポロシャツで警察庁に出入りする長髪男といえば、砂堀恭治をおいて他にはいない。
 食事でもどうですか——とのお誘い。
 岩戸は時間が許す限り、人と会うようにしている。二号館は高級官吏の巣窟。パワーランチで得られる情報が些末であった試しがない。おまけに砂堀の仕事領域は岩戸が「狙っていた」フィールド。電網庁と警察の蜜月に「水を注した」男だ。その仕事ぶりを聞き出しておいて損はないと思う。そうやっていろんな人物と会食する様子が、魔女呼ばわりされる一因であることは知っている。でも、その噂がかえって自分を事情通たらしめてくれた。情報を得ようと近づく人間がいれば、提供するとみせかけて別の情報を吸いだす。
 二人が向かった先は一階奥の食堂。時間を外していたから、人手はまばらであった。定食をトレーにとって窓際に腰を落ち着けるなり、砂堀は「人手が足りないんです」と愚痴をこぼした。
「……何の件で?」
「例のバス事案」
「ああ……猪川大臣の」岩戸はそっけなく返事をしたが、其の実驚いていた。国交省と地元の警察署は動いているだろうけれど、ハッカーの所業が疑われているなどと公表された事案ではない。砂堀がそういうのだから——コンピューター犯罪の線があると警察は睨んでいる、ということか。
 さっそくの情報提供に目を白黒させず、岩戸は続けた。「猪川さんは私と同門なの。ゼミの大先輩。私もショックで……バスの構造か何かが問題なの?」
「いやぁ、まだ詳しくは。というか、なんでもかんでも僕に相談がくる。車酔いが酷いとか、そういう適性に関係なくですよ」
 砂堀は食事をするときも、やや斜に構えて座る癖があるようだ。岩戸は続けた。
「車酔いが酷いのって、誰?」
「僕ですよ」右耳にかかる髪をかき上げる。「まったく……バスの構造なんて知るわけないじゃないですか。プログラマーにも得意不得意があるって、申し上げるんだけどわかっちゃくれない。オタクはみんな一緒だと思ってる」
 オタク。岩戸はその表現に同世代特有の皮肉を感じた。ポロシャツにしろ腕時計にしろブランド品であることがわかる——わかるようにロゴがあしらわれたものを身につけている。物と金に執着してきたバブル世代の男。ならばオタクという言葉には侮蔑の感情が含まれる筈。
 だから額面通りには受け取らない。
「オタクってそんなに日に焼けてる?」と突っつく。 
 砂堀は頭を搔いた。「はは……困ってるように見えませんか、俺」
「嬉しい悲鳴って感じじゃないの? 売れっ子ぶりが様になってるぞ」 
「……電網庁にはデジタル・フォレンジック(鑑識)に強そうなエンジニアがたくさんいますよね。一緒に仕事しませんか」
 悪くない話だと岩戸は思った。件のバス事案には不気味なものを感じている。オートパイロット計画の妨害を狙った陰謀だとしたら、放ってはおけない。
「あなたの上司が本気で打診してる……と思っていいの?」
「いいえ。捜査一課と科捜研が内々に動いてる。僕は、とばっちり組」
「科捜研か……」
「横流しじゃご不満ですか?」
「科捜研の仕事にうちが加勢するということを」岩戸は天井を指差した。「二階の連中は喜ぶかしら」
 合同庁舎二号館の、二階。それは警察庁を意味する隠語だ。
「電網庁の公安部隊って、将来的に警察と合流する計画なんでしょ? まったく問題ないじゃないですか」
「ところが、こっちはラブコールしてるけどフラれそう……わかってる? あなたにいいところ、持ってかれちゃったってこと」
 砂堀は深々と溜息をついた。「やっぱりそういうことでしたか。僕的にはちっとも嬉しくない……だいたい当局に懐柔されるなんて、ハッカーとしては矛盾してますよね。砂堀恭治が警視庁に入ったらしいってネットじゃボロクソに叩かれてますし、もともと忙しいの嫌いだし……いつ辞めてやろうかって気分になる」
「聞いてるわよ。三年前におきた警察のデータ漏洩、予言してたんだって?」
「ああ」砂堀は片方の眉を持ち上げた。「愛媛県警の件ですか」
「他にもたくさんあるんでしょ? 武勇伝が」
「穴を指摘するのが仕事でしたからね。愛媛のときなんて、僕はここに呼び出されて、五時間もかけてご説明申し上げたんです。だけど結局、四国にまでうまく伝わってなかった。で、あのザマです。骨折り損ですよ」砂堀は肩をすくめた。
「それから延々と、警察にラブコールされてたんでしょう? 断り続けてたって聞いたわよ。格好いいじゃん。やっぱりギャラが安すぎた?」
「いいえ。単に、組織の一員って柄じゃないんです」砂堀は長髪をかきあげて、白米を口に運んだ。
 岩戸もカレーライスに手をつける。「電網庁としてはバス事案の早期解決に向けて出来る限り協力はしたい……でも、あなたが引っ張りだこってことは、うちをアテにしたくないっていう警察の意思表示だと思うけれど? それでもうちに孫請けをやれってことかしら、商売敵さん」
「堅いこといわないでくださいよ。驕ります、何か。何だろ。ちょっと思いつかないけど」
 岩戸は苦笑した。「あいかわらず軽いノリね」
「これでも無理して明るくしてるんです。何人か雇ったんだけど、連中は癖がありすぎちゃって……オフィスにいると滅入る」
「ああ。あの二人? おデブ君と、かわいいメガネっ娘」
「自分にリーダーシップの才能があるなんて思ってないですけど……それでもね、ちょっと落ちます」
 如何に腕利きといえど、人事の才能は別。名選手名監督に非ず。砂堀チームは万年人手不足——岩戸はそう納得して、うなずいた。
「……ご愁傷様。とにかく八月五日までは無理かな。引越が終わってから相談にのるわ。初台で」
「初台? NTT東日本のある?」
「そ。あの真向かいに電網庁の新庁舎が出来あがるの。スタッフもシステムも、全部集結する。今は余剰人員を割こうにも難しいタイミングね」
「サーバーも引越ですか。大変そうだ……システム一旦、落とすんでしょ」
「引越してメンテしなおして再起動だから、けっこう停めるみたい」
 岩戸はさらりと内部情報を提供してみせた。しかし其の実、すべてが公表済みの話だ。何か聞き出せたと相手に思わせる。そういうテクニックを駆使した。
「その間、電網庁が提供しているサービスはどうなるんですか? 免許証の認証とか……」
「一日ぐらいは、しょうがないんだ。新庁舎に期待ってことで」
「東京は無法地帯ですか? パソコンの販売とか、携帯電話の契約とか……」
「販売店に任せる。免許証は目視で確認」
「民間に通達を出して、業務を全て停止させるべきだったんじゃ?」
 砂堀の目つきが鋭い。セキュリティの煩型らしく、行政の甘さを突いてくる。手強い男に感じられる。

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