仲本繭は時の流れを感じさせない、空調の効いた暗い個室にいた。此処には安らぎがある。冷暗と安息は同義だと思う。
滞在時間に料金を支払う漫画喫茶のシステム。窓もなく、照明は申し訳程度、見えるところに時計はない。何時間でもいろということ。会社をサボろうが、学校をサボろうが、この狭い壁は「忘れろ。漫画でも読め」と語りかけてくる。眼鏡を修理に出した足でそのまま此処にしけこんだから、今は十一時頃だろう。朝からずっと目の周囲を冷やしたけれど殴られた痣は一向に消えない。癒えるまで出勤は無理だ。
痛くされるのが好きという非人道的な性癖は、どんな社会とも折り合いがつかない。怪我が絶えない繭は過激な愛の交歓を経た翌朝、腹が痛いだの目眩がするだの散々理由をつけて休みまくる。そうやって職場の心象を悪くしつつ――最後は居づらくなって退社。そんなことを繰り返すうちにフリーランスという安住の地に落ち着いた。
漫画喫茶でのサボりは自分にとって通常運転そのもの。
(警視庁なんて無理に決まってる)
お固い職場で自分のような変態の居場所があるはずもない。けれど高級マンションのローンを抱えたいがため、待遇のいい仕事を欲した。無理を承知で飛び込んだ。
同居人としての話合いは頻繁にやっている。顔だけはやめて。仕事に行けなくなるから。いつもそう頼んでいる。けれど美鶴は機嫌が悪いと躊躇なく顔を殴る。駄目だといえば余計に興奮する女だ。それに感じてしまう自分がいるのも事実。
病気だよ。私も、ルームメイトも。
一日二日ずる休みしたところで、しばらくクビにはならないだろう。職場に女性の姿が皆無だから、陰口の進行も緩やかだと思う。でも時間の問題。どうせまた、よるべなきフリーランサーへ逆戻りする。
裏の仕事にも手を出さざるを得ない、と思う。
繭はしばらくリクライニングチェアにねそべっていたが、おもむろに身体を起こし、備え付けのPCに電源を入れた。しばらくにらみつけて、しかし電源を切る。
これは都条例に即した電網庁公認PCだ。自分の免許証を認証しないと動かない。認証した途端、当局に追尾される。ネット上で何をどうしたか筒抜けになる。だからバッグにしのばせている小振りな紫色のノートPCを取り出し、LANケーブルを差し込むと、机の下にあるはずのコネクタをまさぐった。
この漫画喫茶はアングラのインターネット回線を持っている。つながる先は電網庁に統合されていないダーティな私設ISP、一説によると台湾系企業が構築した代物らしい。仮に摘発されたとしても、現時点では罰則がないから、のらりくらり商売を続けることは可能だろう。
(あった)
コネクタを探り当ててケーブルを差し込む。クレジットカードの番号などを求めるダイアログに答えていくうちに、繭はインターネットへの接続に成功した。
無法地帯――といっても去年までの東京と同じ、そして東京以外では今も当たり前の風景だ。
繭は勝手知ったる裏コミュニティへアクセスした。表向きは私設美術館のホームページ。しかし特定の順序でクリックすると危険な扉が開かれる。ライオンの口が限度を超えて開くアニメーション。それに伴ってブラウザが一旦ブラックアウト――やがて、巨大で邪悪な掲示板が姿を現す。
牙城(ストロング・ホールズ)。日本最大の「サイバー犯罪オークション」会場だ。
スレッドの一つを開くと、〈出資者〉を名乗る人物からの違法な要求、法外な予算が晒されている。それに答えようと〈企画者〉たちの違法なプランが数多く投稿されている。誰かが要求を勝ち取りプランを実行に移す。それが一日程度の仕事であっても、サラリーマンの年収を凌駕するほどの謝礼が動く。スレッドには〈企画者〉が〈作業者〉を募る子スレッドも発生する。繭はそこに名乗りを上げることが多い。受け取る額は一桁減るが、それでも真面目に働くのが馬鹿馬鹿しくなる金額だ。
営利目的のサイバー犯罪にはこうしたビジネスマッチングが不可欠である。例えば一人のブラックハットが企業のサーバーをこじあけ機密情報を手に入れる。しかしそれで終わることがほとんどだ。セキュリティの不具合を見つけて面白半分に襲う一方、その企業に恨みなどなく、情報を活用して儲ける目算が立たない。そうやってブラックハットたちは無価値な情報を大量に蓄える。けれど然るべき連中にとっては宝の山に見えるかもしれない。だからマーケットが形成される。
この犯罪オークション会場は厳格に管理され、一定の貢献度がなければランク上位の案件には参加できない。繭のランクはDで、まだまだひよっこ。同居人の十和田美鶴は一つ上のランクC。ランク下位の人間は上位のスレッドを覗き見することさえできない。〈企画者〉として旨味を得るには〈作業者〉としての実績を積み、闇社会の信頼を得ることが必須なのである。この厳格さが「ストロングホールズ」という名の由来でもある。犯罪行為に加担しなければランクアップが望めないので、当局の捜査員たちは入り込み辛い。
繭は公募中の〈作業〉案件を、自分に許されるランクDに絞ってリスト化した。低レベルだけに簡単そうな仕事が多い。とある一家の家族全員分の電話番号をセットで入手せよというものや、某企業役員の不倫行為を暴いた後にネットで糾弾するお手伝いというものまで、多種多様だ。どれに手を出せるか考えているうちに、時間はどんどん過ぎていく。没頭した。非合法な行為だとわかっている。けれど耽った。
漫画喫茶には監視カメラが存在する。けれど構うものか。お金が――必要なのだ。
バス事故のあった料金所の場所を明記し、捜査に参加しているプレーヤーを増やしました(神奈川県警・千葉県警)。また、科捜研にくわえて柏(柏市にある科警研)にも少し触れることにしました。
#大筋には一切変更ありません。