第2話(二):千代田区霞が関:午前

 緒方隼人は毛むくじゃらの男を追いかけて、非常階段を必死に駆け上がった。
 このベテラン公安マン・飯島充はエレベーターを待たない。せっかちというより体力作りに余念がなく、登り坂が大好物なのである。一方、新米とはいえ自分にも空手道を究めた自負があった。肉体派はアピールポイント、遅れをとっては男がすたる。
 ゴリラ男を追いかけながら、休みなく会話も続けた。知力と体力、その両方が警察官には必要だと思う。「欠陥車……ですか?」
 最後の踊り場で飯島はペースを緩めた。「一年以上前だ。同じベガス社の……トラックがな」
「トラック?」
「……ECUとかいう、車載用コンピューターの不具合で何千台とリコールになった。で、今回の観光バスにもトラックと同じ欠陥があったんじゃないかって、死んだ運転手の遺族が主張している。だから科捜研が動いた」
「トラックとバスじゃ、大違いじゃないですか? 言いがかりの類に思えますけど」
「運転手のミスが事故原因だと疑われてる。五十六人を殺した悪魔だと世間が騒ぐ。遺族は必死になるさ」
「確か奥さんと……子供がいますよね」
「小学生が二人。いじめられるんだろ。ネットの書き込みってヤツ、酷いらしいぜ」
「知ってます。顔写真まで晒されてる」
「最低な時代だ」
 二人は階段に別れを告げ、警視庁で最も血なまぐさいフロアへと踏み込んだ。
 刑事部捜査一課。その片隅。小さな会議スペースには先客がいた。ラフなポロシャツ姿の長髪男――サイバー開発専任技師・砂堀と、その部下の津田沼である。涼しげな砂堀と対象的に、太った津田沼のワイシャツは汗臭そうだと緒方には感じられた。
「……遅いです、係長」砂堀が手招きして言う。
「俺はお前らの係長じゃねぇよ、十一係だぞ? お前らは十二……」飯島は腰掛けつつ言った。「……ん? 三人組だったよな。おねえちゃんがいたろう」
 砂堀が口をへの字に結び、肩をすくめる。津田沼はパソコンをにらんでいる。あの仲本とかいう女性がここにいない理由は全く伝わってこない。
「なんだ……発足早々、サボりか?」
 飯島が口髭をひしゃげ、下卑に笑う。
 やがて会議スペースに目の細い刑事が資料を抱えて現れた。テーブルの上に紙束を放りだし、皆に対面する側へと座る。疲れているのだろう――微かな無精髭の具合がいかにも睡眠不足で、綺麗に整えた飯島の髭とくらべれば不健康そうなオーラがある。
「ジマがハッカー番とは驚きだ。公安も人事が大胆になったなぁ」末次警視は開口一番、飯島をジマと称し、ついでに皮肉を口にした。ニヤついた歯並びと歯茎が奇麗で、老練なチンパンジーといった趣がある。
「ち、うるせぇ。何だよ急に」
「だってさ、コンピューターに強いなんて聞いたことないもん。肺活量はゴリラなみにあるよね? だから歌が上手いんだなぁ」チンパンジーが揶揄する。
「そうなんですか!? 意外だなぁ」緒方が目を丸くする。
「へぇ。カラオケ行きましょうよ」砂堀も調子に乗る。
「……」津田沼は無言。
「馬鹿。忙しいんだ。用件を言え」
「まぁ、まぁ……そっちの彼は十一? 十二?」末次が緒方を見初めた。
「十一係の緒方です。まだ配属されたばっかで、ハッキングとかは全然、素人で」新人らしく背筋を伸ばし、くいっと頭を下げる。
「ジマの部下か。大丈夫? 声が小さいと苦労するよ。こいつは肺活量のおかげで声、大きいでしょ。末次的にはさ、歌が上手いんじゃなくて声量で誤魔化してる感じもあってだねぇ」
「ふざけんなスエ。用件言え、用件」今度は飯島がスエ呼ばわりした。
「例のバス事案な。事故のあった木更津の料金所、アクアラインを挟んで両側は神奈川県警と千葉県警が所轄。それにNEXCO東日本、国交省で一丸になって調査をやってる。今のところ事故の線で、過失の有無を探ってるわけだが……ちと妙な雲行きだ。聞いてるだろ?」
「……それで?」
「国交省の仕切る事故調チームとは別で、内々にウチの科捜研や柏(千葉県柏市にある科警研=科学警察研究所)まで動かそうって話なんだが、どこも手が一杯でなぁ。俺がまとめ役になって、コンピューターに強くて暇な奴がいないか声をかけて回ってるんだ。で、鳴り物入りの砂堀さんを借りられないかって」
「そんなの俺に聞くな。十二係の係長判断だろ」飯島は左隣の長髪男を意識して言った。「紫暮だ、紫暮」
 砂堀は長髪で顔を覆うようにうつむき、溜息交じりで言った。「それがですねぇ、まだお会いできてない。やりとりは電子メールのみです……長期出張って聞いてますけど、顔を見せてくれること、あるんですかね?」
「ち」飯島は舌打ちしながら身体をのけぞらせ、砂堀の後頭部に小声で囁いた。「……スエはホモっ気があるから、気をつけろよ。お前はたぶん好みだ」
「げ!?」長髪男は顔をすぱっ、と上げた。眉を寄せ、とほほ顔で笑った。「……はは」
 そんなやりとりをしてから、ゴリラは姿勢をただし――
「どうなんだぁ砂堀? 忙しいんだろ、お前ら十二係は」あらためて問う。
 砂堀もそれを受けて大仰に手帳を取り出し、ぺらぺらとめくった。
「忙しいですよぉ。ええと……ここ一週間で、四件のオーダーがありました。警察庁サイバーフォースセンター様から遠隔地に対するネット監査の相談、おなじくフォレンジック(デジタル鑑識作業)ツール開発の相談、生活安全部サイバー犯罪対策課様より不正送金防止プログラムの仕様策定……など、など」
 それを聞いて、大袈裟にうなずきつつ飯島は結論する。「忙しいってよ」
「いや、そうだろうけども……」
 末次警視は弱り顔だ。テーブルに置いた資料を指で押し出す。「一緒に科捜研で話を聞いてくれるだけでもいいんだ。バス事案、ちょいと厄介なんでね」
 砂堀の部署が桁外れに忙しいという事情は、部下の津田沼がだんまりを決め込んでいる態度からも察して余りある。緒方はそう感じた。きっと仕事を増やされたくないのだ――件の欠席女子も、多忙すぎて来られないに違いない。
 事の行方をただ眺めていた緒方の側に、飯島が振り向いて言った。「そうだ……お前が御用聞きしてくるか?」
「俺がですか?」
「あー、それ助かるなぁ」砂堀が微笑んでいる。
 緒方は冷や汗をかきつつ、喜んで、と返答した。警視庁内で一身に期待を集めるハッカー部隊、十二係。その助っ人とあらば引き受けてみたい。飯島と旧知の仲らしき刑事のやり口にも興味をそそられる。
 但し、ホモっ気なる事情は聞き捨てならないが――。

“第2話(二):千代田区霞が関:午前” への1件のフィードバック

  1. バス事故のあった料金所の場所を明記し、捜査に参加しているプレーヤーを増やしました(神奈川県警・千葉県警)。また、科捜研にくわえて柏(柏市にある科警研)にも少し触れることにしました。 

    #大筋には一切変更ありません。

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