第1話(五)

 翌朝、香坂は七時半に出勤した。定時より随分早かった。
 十和田美鶴の所業について、なるべく急いでレポートを仕上げたいと思っていた。いろいろとやるべきことがある。
 垂水局次長の計らいで、中央合同庁舎二号館十一階の図面が手に入った。電気系統の配線が詳しく載っている優れ物だ。興味があったのは十和田美鶴が根城にしていて、有華が居所を看破した件の女子トイレ。三つある個室の中央にだけ、電源の配置や、窓の向きなどに特徴があるかどうかだ。しかし、これといって奇特な事情は見当たらない 
 次に香坂は電網庁管理局のサーバーへアクセスした。電網免許証の追尾専用アプリを開く。一見、無防備に思えた十一階のセキュリティ事情だが、実際には電網免許証の追尾センサーがあちらこちらに仕込まれていた。誰が何時何処にいるか追跡するシステムを試験するためである。センサーは目立たない仕様の最新型で、だから香坂は初見で見抜けなかった。
 免許証番号と日時を指定すれば、フロアマップに対する赤い斑点として、人間の行動履歴を眺めることができる。どうやら十和田美鶴は、女子トイレに入り浸る時刻を昼休み前後と決めていたようだった。一方、彼女のPCに残るフィッシング行為の履歴(ログ)らしきデータにはアクセスの日時が付記され、やはり十二時前後に集中している。双方はぴたりと合う。これは重要な発見で、ログに対する香坂の見立てを裏づける。しかも十和田がプログラム任せではなく、昼休みに自ら「根城」へ出向いてフィッシング行為に興じていたことも明々白々だ。
 といっても女子トイレについては、入口を通過したかどうかを追尾できるのみで、三つ並んだ個室の中央が常に根城だったとは言い切れない。
 香坂はPCの画面を睨み、レポートの空欄へ「トイレの真ん中?」と入力した。
 この謎にこだわりたい。
 レポートの中で、常代有華の功績を語るためには。

mage_icon_headOnly

 香坂は気分を変えようと席をたち、廊下へ出た。
 壁を丹念に観察しながら歩くと微妙な凹凸が見受けられた。電網免許証に反応するセンサーの工事の跡は、なかなかの労作だ。
 免許証を紛失、あるいは盗難されたりといった事態への対策として、電網庁は全国規模の追尾システムを計画している。もちろん国家権力が国民の位置を常に監視するということでもある。防犯に貢献するプラス面と、プライバシー侵害というマイナス面。双方を併せ持っている以上、運用側の責任は重大である――香坂は論文をそう締めくくった。
 だからこそ、ここにいる。自分の研究が世のためになるかならないか、見極めずに生きていくのは寝覚めが悪い。一度は民間企業に就職したものの、悩んだ末に公務員試験を受け、電網一種にも挑戦したのはこの為だ。
 やがて、香坂は女子トイレの前で足を止めた。
 三つ並んだ個室。その中の一つだけにコンセントがあるとか、電波の受信や発信に有利だというなら、十和田美鶴が根城にする理由になるだろう。しかしそういった事情は見当たらない。三つの個室にはすべて窓がなく、同じメーカーで同じ型番の洗浄便座が設置されている。コンセントの数も同じ。
 ところが常代有華はおよそ一週間前から、個室の中央にだけ怪しい気配を感じたという。どういうことなのか、さっぱりわからない。だからといって調べに入ることもできないのが、もどかしい。
 早朝を狙ったのは、清掃業者の人間に調べ事を頼めるかもしれないと思ってのことだ。しかし、どうやら十一階の清掃は終わってしまっていた。もっと早い時間に来るべきかもしれない。
 香坂は頭をかしげつつ、男子トイレに進路を取った。
 小水便器の前に立ち、ジッパーを降ろし、用を足しながら物思いにふける。
 情報処理は理屈だけでどうにかなる研究分野。なのに常代有華の感性ときたら、研究対象としてはいささかぶっとびすぎに思えた。
 まさかとは思うが――超常現象的な、霊的な能力の類なのだろうか。 
 香坂が微かに身震いした、その時だ。
 隣に誰かが立つ気配があった。しかも、自分と同じく黙って用を足すものだと思いきや、唐突に驚嘆の声をあげたのだ。
「う……うわっ」
 そしてこう続けた。「ど、どうしよ!? ち、ちんちんが……ちんちんが消えた!?」
 香坂は慌てた。恐怖した。
 だから咄嗟に横を見た。
 隣に立つ人物の顔ではなく、股間を。
 ジッパーの隙間を。
 ない。確かにない。
 あるべき男性のシンボルが見当たらない。
「う……うわああああっ!?」
 こんどは香坂が悲鳴をあげ、もんどりうってトイレの床にへたりこんだ。
 すると。
 隣の人物は香坂に微笑みかけて、こう告げた。
「えへ。女の子になっちゃったぁ」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。