有華はそのまま三十分近く、鼻の形と性欲の相関について先輩女性陣と語らうティータイムを過ごした。香坂の加勢が効いて引越の段取りは目処がついたし、夜は夜で別の行事が待ち構えている。休憩も必要、と判断してのことだ。垂水局次長とのやりとり――手柄がどうこうという――のせいで、なんとなく香坂に合わせる顔がない、という事情もあった。
しかし、いつまでも油を売るわけにはいかない。有華は居室のドアをそっと開けてみた。窓から刺す夕陽の中、新人君は黙々とデスクワークをこなしている。
「あ、おかえりなさい」そう言いながらも、キーボードを弾き続けている。
香坂は特命課のわずかに残った机の上で、ピンク色のノートPCを広げていた。十和田美鶴の私物。垂水局次長から請け負った解析作業を、早速やっているらしい。傍らには自前の黒いノートPCを並べている。
有華はその向かい側に椅子を置いて、腰掛けた。
「コーヒー淹れたら飲む?」
「あ……大丈夫です。お気遣いなく」香坂はペットボトルを指して言った。
「私だけ休憩しちゃったからさ」
「問題ないでしょう。今日の特命課は、随分働いたと思います」
香坂は目を合わさず返答した。作業にかなり集中していて、有華はその真剣な横顔を、心置きなく観察することができた。
端正な割りに鼻は外国人のように大きい。ナナによれば、それは絶倫の証しであるという。
それを意識した自分が恥ずかしくて、有華は赤面した。
目が合いそうになる。だから慌てて適当な言葉を吐く。
「……二台、つながってるの?」
有華はコンピューターにさほど詳しくない。
「いいえ。スニーカーネットです」
「すにーかーねっと?」
「問題のあるマシンには、自分のマシンを直接繋いだりせずに……」
香坂は、USB端子に差し込んだスティック型の記憶媒体を指して言った。「……この中に、解析ツールを入れて流し込む。最悪でもこのメモリが汚染されるだけで済む」
「なるほど。ネットっていえば無線かケーブルだけど」
「記憶媒体に入れて、足で運ぶ。だからスニーカーネット」
「じゃあこっちの黒いので何やってんの」
「解析プログラムを走らせている最中に、ひまつぶしのネットサーフィンですよ」
「なぁんだ」
香坂のキーボードを弾く指が止まった。「ところで……猪川大臣、辞任しましたね」
「……やっぱり?」
「わかってたんですか」
「……そうなるだろって、言ってた奴がいたから」
「言ってた奴?」香坂は笑う。「おしとやかさ強化月間、でしょう」
「……言ってたひ・と、がいたからっ」
有華は訂正しつつ、GEEの言葉を思い起こしていた。
オートパイロットの旗振り役として、電網庁と運命共同体を張っていた政治家・猪川忠直。その息子が昨日の事故で帰らぬ人となった。しかも被害者の家族となった猪川は、国土交通大臣の職を辞さねばならないという。国交省が事故調査を担うから――というのが専らの理由。
有華にはすべてが理不尽に思えていた。
「猪川は生粋の道路族議員らしいです。自動車メーカーとは馴染みの仲だし、とどまっていたら便宜を図ってくれと泣きつかれる可能性がある。仕方がないでしょう」
「息子が死んだのに? 便宜を図るなんて、できるわきゃないでしょ」
「奥さんも黙っちゃいないでしょうしね……逆に、猪川がメーカーを糾弾する側にまわりでもしたら、彼自身の支持基盤が揺らぐ。同じ会派の族議員も二手に別れかねないし、そうなると国会も行政も混乱する。本人としては辞めてホッとしているかもしれない」
「へぇ。凄ぉ……なんか分析ってカンジ」
GEEに似ている、と有華は感じた。物事の裏表をなめ回して、思うまま串刺しにする。ハッカーに共通する資質だろうか。
自分には到底できない芸当だ、と思う。
「ところで……ゆかりんに質問があります」
「何?」
「アメ車、いじったことあるんですか」
有華はきょとんとした。「あるよ、勿論。何……そんな事、言ったっけ」
「覚えてませんか? 午前中、サーバーのラックを解体してるときに」
「言ったかも」
「常代有華さんは、あのラックを組み立てたご本人ですか?」
「違うよ」
「……僕が手にしてた六角レンチが国産でメートル基準だから、インチ基準の穴には合わない。理屈はわかりますけど、あのとき僕が穴に差そうとする前に、先手を打たれた気がしました」
「そうだっけか?」
「アメ車をいじった経験があろうとなかろうと、あのタイミングで気づくわけがないと思うンです……が」
「ぴーん、ときた」
「ぴーん。勘ですか?」
「人の行動を先読みする癖があるんだよね。次から次へと」
「ふむ……次の質問です」
「はい」

読者様からご指摘があって、誤字を直しました。
誤)最期の質問
正)最後の質問