香坂は天井を仰いだ。特命課の片隅で、段ボール箱に囲まれた椅子に腰掛け、首にタオルを巻いて。
窓の外を見ると、ヘルメットをかぶる清掃業者の男が手を振ってきた。彼の汗は輪をかけて凄い。到底かなわない、と思う。
腰のポケットからスマホを取り出す。御守りを一緒にひきずり出さないよう気をつけて。
電源を投じ、件の電子メールを眺めた。
”組織に尽くせるか?”
”差出人:UNKNOWN”
昨日誰かが送りつけてきた奇妙なメッセージは、香坂の喉元へ棘のように突き刺さっていた。
確かに自分は会社を辞めた人間。一度は組織を裏切った男だ。
(誰ですか? この御仁は)
香坂はスティーヴ・ジョブズのような人物像を思い描いた。しかし即座に否定する。彼のような男は組織に馴染むというより組織を改変する、いわば現実を歪曲させる存在だと思う。無条件の服従など求めるわけがない。
僕は――どっちだろう。
僕に現実を歪曲する力はあるだろうか。
香坂は深々と溜息をつき、携帯を閉じた。呆然としていたところへドアがノックされ、その音で我に返る。
振り返ると制服姿の紳士が立っていた。警察官――それも、明らかに大幹部の風格がある。
「……あのー」紳士は脱帽し、おどおどと切り出した。
「なんでしょう」
「……こちらに常代有華というのは……おりますか」
「あ、いますよ」そうは答えたものの、よく見れば姿が見当たらない。「あれ? ……いないなぁ。さっきまで忙しくしてました」
「そうですか! ここにいたか。そうかそうか」紳士は喜んでいる。
「あ、でも引越ししますよ」
「え」そう告げた途端に意気消沈した。「そう……ですか」
二人はしばし無言で向かい合った。やがて。
「いつも……昼飯はどうしてるんですかね」紳士が言った。
いつもなんてわかりません、僕は配属されたばかりの新人ですから――そう答えたいところだが、香坂は相手の素性を問い正すべきだと思った。
「失礼ですけど、どのようなご関係……」
「あ、いや。親族なもので」
「親族? 大事なご用ですか」
「いや、ね」紳士は取り繕う。「二階に用事が。け、警察庁ね。ついでで、ちょっと顔出してみようかなと」
「……ここで待たれますか?」
「あ……いえ。また来ます」
「何か伝言があれば」
「そうだなぁ……頑張れ、とお伝えください」
「あ、お名前……を」香坂にこの紳士が何者かわかるはずもなかった。
「そうですよね。高柳、といいます。隣の、警視庁におります」
名刺を差し出されて、香坂は目を丸くした。
高柳泰平の肩書きは――警視総監、とある。
「う……!? 承りました。必ず伝えます。あ」
「?」
「すいません、配属されたばっかりで名刺……まだないんです、けど」
「ああ、結構です結構です」
「出来たらお持ちします、必ず」
紳士がにこやかに会釈し、背を向け、特命課を出て行く。香坂はその後について部屋を出た。
廊下にも有華らしき姿が見当たらない。トイレにでも行ったのだろうか。
振り返って部屋に戻る。すると。
「え?」
壁の裏側に捜し人が立っていた。
「しーっ。静かにっ」有華はわざわざ隠れていたらしい。