第0話(六)

 仲本繭はその夜、男達のせいで疲れきっていた。同僚の気色悪いデブと外見にお金をかけすぎの上司。この二人はソリが合わない。そのどちらに調子を合わせるのも、繭は気乗りがしない。
(あーあ)
 帰宅するやいなや、繭はバッグをぞんざいに放った。生活のために再就職を決断したものの、条件につられ警視庁などという厄介な職場を選んだのは間違いかもしれない。でもこの城の為だ。プータローでは手に入らない高級マンション。荷物を床に放っても散らかした感じのしない、このリビングの為なら。
 繭は値の張るソファに全身をどすんと預け、それから耳をすました。
 シャワーの水音が――途切れた。
 同居人は濡れた髪のままこちらへ歩いて来るだろう。いや、まずキッチンに立ち寄って冷蔵庫を開ける。それから自分に気づく。
 繭はあえて廊下に背をむけた。ガラステーブルへ向かい、開かれていたノートパソコンをタッチする。ブラウザを開いて、ついつい検索してしまったキーワードは――岩戸紗英。写真がたくさんヒットした。でもすぐに消そう。見られたらまずい。私の好みだってバレてしまう。履歴も残さないほうがいい。
 スリッパの音が近づいて来た。重さがあった。肉感的な女の重力をはらんでいる。
 少女のような自分とは違う、大人の女の身体つき。その足音はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開け閉めした。やがて――
「あ……まゆちんだ」同居人の、第一声。
 繭は眼鏡のズレを直すと、振り返らずに呟く。「帰ってたんだ、みっちゃん。早いね」
 か細くて愛らしい声を出すこと。それがお約束。まゆちんのキャラ。
 ノートPCを叩く。履歴を消して、それから適当にネットサーフィン。男の名前で検索しよう。御題は何でもいい。たとえば――砂堀恭治。大丈夫、これなら毒にはならない。薬にはなるかもしれないけど。
 繭はあくまで後ろを振り返らない。それがお約束。
 同居人の気配が間近に迫った。バスローブから伸びる白い足が、ストッキングを履いた自分の黒い足に絡まってくる。遂に背中から、ぎゅっと抱きしめられた。声が漏れそうになる。しかし繭は我慢した。まだダメ。まだ振り返らない。じっと液晶画面を見続ける。
「面白い? こーあんの仕事」
 耳元で囁く、鼻にかかった甘い声。少女を演じる自分とは真逆。大人っぽくていやらしい。それが彼女の、お約束。
「どうかなぁ。確かに機密情報っぽいのはゴロゴロしてそうだけど」
「じゃあ面白くなりそうだ。カモろうよ。どうせ馬鹿ばっかでしょ」
 同居人の舌が頬を這った。「おいし……」
 あ。
 繭は反射的に声を出した。「ん……みっちゃんじゃ、ないんだから。国家権力なんてカモれないよ私」
「あははは」
 同居人があけすけに笑う。バスローブをわざとはだけ、素肌を押し付けて。
 弾力が繭の意識を朦朧とさせる。
「お仲間はどう? ガード固そう?」頬の肉を言葉が伝う。
 苦しい。我慢できそうにない。
 はぁあ、と吐息が洩れる。
 繭はやっとのことで言葉を紡いだ。「……長髪のバブル親爺と、おしゃべりのキモデブ……デブはよくわかんない。長髪のキャリアは凄いよ。有名人だもん」
「へー、誰?」
 繭は抱きしめられたままで、腕をテーブルに伸ばし、ノートPCのブラウザをスクロールさせ、上司のキャリアを紐解いて見せた。
 検索で見つけたニュースサイトの記事は、まだ日付が新しい。
――『人気ホワイトハットに三顧の礼・警視庁の新戦力となるか凄腕ハッカー』。
「警察が頭をさげて、連れてきたみたい」
 同居人は繭の肩越しに、長髪がなびく男の顔写真を見初めた。「わ……砂堀恭治じゃん! こいつへこたれないよねぇ。ブログに炎上仕掛けてやったことあるんだけど」
「なんでそんな事したの?」
「こいつを悪く言うだけで、お金くれる連中がいるって知ってた?」
「そんなに嫌われてるんだ」
「女にモテそうだからかな? なんかさぁ、エロい顔してるよねぇ」
 繭は頬をふくらませた。腹をたてたという素振り。すると同居人は背後から、膨らんだ両頬を両手で支え、強引に振り向かせた。
「まゆちんはデキるオヤジ……好き?」
 同居人は意地悪く笑う。
 繭は目を伏せた。もちろん演技だ。「男が好きなわけないでしょう」という意味の。「わかっているくせに」という意味の。
 誘っているのだ。ふてくされて見せれば慰めてくれるから。
 すべてがお約束。
 同居人は笑いながら、繭の眼鏡をそっと外させた。
 それから強く、強く唇を貪った。

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