第1話(一)

 香坂一希は自動改札機の前で歩みを緩めた。
 東京メトロ丸の内線は通勤ラッシュの真っ最中で、改札はとっとと抜けるべきだ。しかし手にはまだ最新型のスマートフォン――いわゆるスマホを握っている。起床してからずっとネットを眺めっぱなしで、頭の中は事故の事で一杯だった。
 やがて足を完全に止めてしまう。
(レーンとレーンの間にぶつかって……真っ二つか)
 自動改札機の並びを高速道路の料金所に見立てると、まるで自分が吸い寄せられるバスになった気分になる。けれど事故のリアルな状況には見当が及ばない。免許こそ持っているけれど、香坂は所詮ペーパードライバーだ。
 自分は幸運なのだろう、と思う。バス事故には巻き込まれなかったし、この改札を抜けてエスカレーターを登れば霞ヶ関の官庁街だが、向かう先は大臣の去就で揺れる国土交通省ではなく、あくまで総務省なのだから。
 香坂は歩き出そうと決め、改札を通る前にスマホを片付けたいと考えた。ところがポケットは満杯。どこへどうしまうか悩み始めたものだから、なかなか再スタートが切れない。後続のOLたちが自分を避けていく。でも焦るどころか、むしろポケットを一杯にして歩く男の命運について考えたくなる。
 不謹慎かもしれないが、自分は不運な事故に巻き込まれることがなさそうだ。信心深い母親のせいで、全身擬体ならぬ全身御守りだらけなのである。シャツのポケットに『交通安全』、パンツのポケットに『家内安全』『病気平癒』『縁結び』。学生時代は『学業成就』を持たされ、卒業してやっと一つ減ると思ったら『商売繁盛』を持たされそうになった。公務員になるんだから『商売繁盛』は無用とつっぱねたところ、かの母親は『技芸上達』なる御守りを見つけてきた。結局五個から減らないまま、今日を迎えた。
 香坂は悩んだ末に、スマホを上着の内ポケットへねじこむ。財布と一緒になったから胸元がこんもりと膨らんだ。それが不愉快で顔をしかめる。御守りをたくさん持つということはポケットの中身がかさばるということで、それはお洒落最優先な自分にとって腹立たしいことこの上ない。スリムに体型を保ち、シャープなスーツをスマートに着こなしたい。財布の厚みも最小限にしたいから、五つの御守りは各ポケットに分散配置している。そういえば、打ち出の小槌の形をした御守りは最悪だった。薄型オンリーにしてくれと、繰り返し母親に直訴したものだ。いずれ結婚すれば『縁結び』は持たなくてよくなるだろうが、きっと『安産祈願』を持たされるに決まっている。その先は、子供の『学業成就』か――あまり想像したくない。
 京都人だからというわけでもなく、母親はオカルティックな傾向があり、香坂自身にも少なからず伝奇趣味があった。大学院まで出た理系人間のはずが、もらった御札など捨てるに捨てられないし、紛失しようものなら眠れなくなるに違いない。実は京都という町が「霊的に護られている」と少なからず信じていて、でも吹聴しないように気をつけている。

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 中央合同庁舎第二号館はいつも節電モードで、薄暗い。ご時世だろうと香坂は思う。着工は一九九七年、竣工は二〇〇〇年。最上階まで吹き抜けの設計にバブルの残滓が感じられた。遥か頭上の採光窓がどこか物悲しく見える。
 香坂はエレベーターで十一階へと上がった。吹き抜けから一階を見下ろすと雑多な連中が行き交う様が見えた。廊下を歩く途中、メッセンジャーバッグを抱えた男とすれ違う。こういった業者も皆、ドアというドアのほとんどを平然と出入りしている。いまどき錠前としてカードリーダーが見当たらないオフィスビル――複数の官公庁が入居する建物なので、なおさら不安を感じる。ましてやここは情報通信の要、総務省だ。
 香坂は大学院を卒業後、半年ほど小さなネットベンチャーで働いた。大した組織ではなかったが、セキュリティの意識は此処より遥かに高かった。すくなくともドアにはカードリーダーが驕られていた。
 特命課なる室名札が目に入ると香坂は立ち止まり、スマホを取り出した。電源を投じてカメラを起動、自分撮りモードにして西陣織ネクタイの乱れを確かめる。今日のために夏物スーツを新調した。クールビズだからといって上着を持参しないような不作法は御法度。礼儀はともかく、自分は京都出身。呉服屋の息子。だからお洒落はアイデンティティだ。
 ドアをノックした。返事がない。
 開けてみるが――部屋に人影がない。というより人の気配がしない。
「すいま、せーん……あのう」
 照明は点灯していた。オフィス然とした机と椅子が相当に密集しているが、その上にあるべき紙の資料やコンピューターの類が皆無。壁際の書棚も空っぽで、部屋の隅には段ボール箱が数多く積まれている。窓にはブラインドが架かっていて、隙間からガラス窓を磨く清掃員の姿が見えた。
「どなたか……おられませんかぁ」

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