自分でサイバー文芸っぽい小説を読んだり書いたりしているうちに、このスタイルがヒットし辛い「壁」のようなものの存在を幾つか感じます。
1)サイバー表現は単純
キーボードを弾いて、液晶画面を見る。基本的にはこの程度しか描写するものがありません。悪玉ハッカーがハッキングしようがネットサーフィンしようが、文章表現としては大差ない。「JM」や「電脳コイル」のようにヴァーチャルリアリティの表現を取り入れることで壁は崩せそうですが、現代劇に限ってしまうとそれも難しい。描写が画一化すると、おそらく読者・視聴者に飽きられやすくなる。昨今SFでもサイバー表現が廃れた理由はこのあたりにあるかと思います。
2)サイバー表現は難解
一方、サイバーセキュリティにまで手を広げてSEの日常などを綴ろうとしてみても、用語の細かさと説明の難しさに阻まれ、頑張れば頑張るほど読み手を疎外するものになりかねません。「プログラム」と近しい「コンパイラ」という単語をとってみても、詳しい人間からすれば「お米」と「炊飯器」ぐらいの関係ですが、一般人からすると「コンパイラって何」で止まる。じゃあしょうがないから「コンパイラとはプログラムを仕上げるツールの一種で」と描写を書き込んでもいいわけですが、「炊飯器とはお米を炊きあげる物の名称で」と説明するようなことなので、格好悪い。憚られる。省いてしまう。結果、読者には敬遠される……という悪循環が発生している。そう思います。
2)を志向できない以上、1)の対策を講じるにはヴァーチャルリアリティ的な(視覚に訴える)描写を増やすしかありません。その意味では、Windows 10 やグーグルグラス等のAR/VR系技術の発展にともない、サイバー文芸はもっと豊かになるという楽観的な予測も成り立ちます。